生活環境の恒常性と日常性

はじめに
 道路を自動車で走行して同じ景色が連続していると、自動車は止まっているように感じられる。日常生活も日々変化が無いと、永遠に同じ生活が続いているように感じられる。日々、同じ時間に起き、同じ時間に決まった行動をしていれば、行動は習慣化して、意識や意志もなく、機械的に生活が進行する。ル・フェーブルの「日常生活批判」には、恒常化した生活が批判され、その生活からの脱却、改革による既存体制の脱却、当時の実存主義の改革へのアンガージュマンに同調する。それは安保1960年、大学紛争1969年に学生の熱意は盛り上がった。その盛り上がりの後、変わらない日常性への復帰は挫折感を作り出した。また、日常に復帰できなくなった人は、辺境に逃避し、迷いの日々を過ごしていた。
 一瞬の日常の継続が恒続するものではないのに、瞬間の恒常性と混在させることがある。変革への参加が変革になりうるかは、社会の構造とその動的変化を見出すことが必要なことは、マルクスが考えていたことだ。しかし、動的変化に変革の切り口を見いだせないまま、時代がすぎていくように感じらる。以前の学生運動の盛り上がりは見られない。自分自身の存在感が日常性に埋没し、日常の社会構造を批判的に見えなくしていることに反省する必要がある。
 
生活環境に見られる様々な恒常性
 日常を構成する生活環境は、習慣的に循環する生活によって変化が失われる。一方、生活習慣のレベル?を向上させ、それを日常化しておくことも大切である。周囲・近隣の環境を選択して、習慣的な生活行動が成立する。しかし、近隣の生活環境に選択の幅が狭く、単調である場合に、生活行動はは限定されてくる。恒常化した環境は無意識となり、外界の刺激を刺激として感じない。どこでも同じ商店街、規格化された住宅の並ぶ住宅地、道路空間、3面張りの河川など自体、無意識となっている。人工林の森林も無意識の空間に入るかもしれない。
 恒常性をもたらす空間が