カオス混沌のダイナミックス動力学

はじめに
 自己反省であるが、高齢となり、死が待っている未来に期待を持てないことに気がついていた。これは全く独りよがりな老人のナルシシズムである。過去の反省を取り返す未来を放棄し、社会体制の末端で生きて、社会の変化にも傍観者でいることは、社会のお荷物となっていることに無感覚となっている。どうしたらこの状態を脱することができるのか?
 数日若者が寄宿して暮していて、若者の未来の期待と模索に付き合っている。若者が独自の期待に夢を持つほど現実は不安なものとなり、夢を惑わせるものとなる。現実の社会体制は堅固で、その堅固な体制に依存して生きようとすれば、夢を諦めなくてはならない。
 しかし、社会体制はそんなに堅固なものなのか、また、個人の生き方に同情的な存在なのか、私は答えることができなくなる。また、そうではなく、未来の社会の変動や社会の非情な面を強調することもできない。私が現実社会に傍観者であることが、若者の立場に同調できずに、年長者の助言もできないでいることに気づかされた。私自身が未来に期待し、不安な現実に向かっていかなくてはならなかった。社会は未来に向かって混沌としており、そのために、個人の力で混沌から抜け出た、未来を見出す可能性があるのだと言えるように変わる必要があった。あきらめの老人には若者に提言する資格はなく、共に生きることもできない。

statisticsとdynamics
 statisticsという言葉を森林美学の中に見出した。静力学の訳がある点で動力学dynamicsとの対立した言葉であることが窺える。力学自体がdynamicsとも考えられるのに、静力学は何を意味しているのだろうか。力学はニュートン力学によって完成するとされるが、後に進化論によってdynamicsの意味が変わり、古典的となったニュートン力学が静力学となったのであろうか。statisticsの林業用語としての意味は一種の計算法を示しているので、かってな解釈にすぎないのだが、何故その計算法がstatisticsなのか理解できないでいる。
 進化論における混沌とした宇宙の誕生と生命の誕生の誕生は宇宙と生命に秩序をもたらすという、混沌とは逆の事態を生じさせることになった。微細な事象が巨大な事象へ展開する物質のdynamicsであり、物質がdynamicsの要因となる。ニュートン力学は物質の現象の断面に生じた秩序であり、それ故にstatisticsで時計じかけのように繰り返し生じる法則(機械論的世界観)となるのだろう。変転した人類の進化の中で、固定的な生命や現象の解釈は、抽象化された生命や人類の概念であり、その概念によって人類は普遍化して考えられるのだろう。混沌と変転する現実は、こうした固定的観念からとらえることができない。これは老人のstatisticsと若者のdynamicsのアナロジーに過ぎないことであろう。