風景とイメージ

はじめに
 個人のある場所のイメージは、どのように得られるのであろうか?その場所の風景はその場所に到達するまでの経験とその心理的変化によって左右され、また、過去の様々なイメージの連想によって成立する。また、それだけで風景が認識されるわけではなく、風景が要素とその構成として認識され、各人の共通した認識となるのは、固定的な風景観の前提あるいは固定観念があるからなのだ。その風景観は最近、「まなざし」の表現で示されているようであるが、(西田)ここではその論議を置いて、風景とイメージの関係について考えてみよう。
 風景は一場面の視覚像であるが、それぞれの場面はそこに至る様々な経験や連想の賜物であり、風景の構成そのものも、まなざしという連想の一環ということなのである。場面にいたる過程を動画とし、場面の視覚像を画面とすれば、映画と写真の関係となり、映画の物語はイメージということになる。物語の連想のイメージの場面が視覚像となり、時に風景となる全体像や背景となって現れるのである。人々はそれぞれの物語を構成する人生を演じており、シナリオの場面で行動する。いかし、誰もそのシナリオがどこに行き着くのかは判らない。諦観は物語に幕を引き、希望は新たな物語の進展をもたらす。イメージは希望によって未来の空想と理想をもたらし、それが時々や場面の眼差しとなるといってよいのではないだろうか?

地域の全体像としての風景のイメージ
 地域の範囲は重層構造を持っている。生活行動の場としての地域は、日常生活圏の構造によって1日圏、1週間圏、月、季節と広がる。用件に従って目的地が異なり、それが習慣化することによって、生活の行動パターンが生じる。地域の住民の各々の生活パターンと生活環境の経済構造が対応して、地域の形態が生まれてくる。この地域の中に各人の生活の場と行動による地域のイメージが生まれ、そのイメージによって生活が営まれる。
 行動は地域イメージの一部として計画され、行動によって経験が積み重ねられる。行動のための環境知覚が場面の眺めとなり、イメージの連想が重ねられる。地域を眺望する眺めは、連鎖した全体イメージが眺めの意味として散りばめられる。