人による森林の盛衰

はじめに
 池内紀「人と森の物語」は森林の盛衰が人によるものであることを示している。しかし、森林は自然の遷移によるものであることが多く、奥山には極相に近い天然林が保たれていた。人の植林による森林は、海岸林、緑地に保たれてきたこと、天然林の保全が拡大造林に抗して残されたこと、これに対して林業によって育成された森林についても、池内氏の本は示している。
 池内氏の指摘は、北海道の開拓以来の森林開発、歴史的な里山の拡大造林による森林転換、奥地林の開発は、森林の保全にとってはマイナス面であったことが示唆される。現在、利用されてきた里山や植林されながら放置された森林が放置されていることは、確かに人が関わったことによる大きなマイナス面の顕在化である。人が関わることによって、価値ある森林が育成される一方で、育成途中で放棄することが森林の大きな損傷となることである。自然林は自然破壊にも自己回復の力があり、自然の循環によって持続することができる。人の関わりはこの自然林の仕組みを改変し、人が利用して関わる仕組みを生み出している。自然林の仕組みに変換する関わりなしに、放置してしまえば、自然の循環の仕組みは簡単には復旧できなくなる。火災跡地の森林回復のように、いっそ皆伐して放置もあるかもしれないが、森林自体の回復に長い時間がかかり、広い面積にわたって自然林のような仕組みが再現するとは言えない。

森林の盛衰
 自然林は、極生相として最も盛んな森林の姿を見せるが、老齢化し、自然破壊とともに、衰退した状態に至る前兆の状態であるともいえる。森林破壊は森林が更新し、成長する場所を作り出し、森林の循環的持続の契機となる。200年の自然林は平均100年の林分の集合で持続する森林となる。林分の盛衰によって自然林が持続することになる。
 木材収穫のための人工林は、収穫による伐採地が森林破壊であり、その場所への植林が森林再生の場所となる。収穫までの森林の成長によって森林が持続し、その繰り返しによって人為的に森林の持続が行われる。自然林の収穫から、植林による人工林が成立しているが、人工林を自然林に回復させることは、注意を要することである。
 森林が開発され、農地やその他の土地利用に変更されると、森林は喪失してしまう。人口増大によって開発地が拡大して、森林喪失が拡大してきた。日本の森林面積は国土の3分の2に及び、森林喪失は国土としては問題にされないかもしれない。農地の場合、農業の持続困難地で森林回復がなされ、森林増大の可能性があり、森林の失地回復がなされているといえる。森林の持続の必要性も、森林の相対的価値が評価されることによって認められるだけかもしれず、その価値が認められた場所と認められずに開発に失われた場所で森林盛衰の成否が分けられるのであろう。例えば、社寺の境内には百年以上の森林が成立することは珍しいことではない。

自然林の回復
 田中正大「日本の自然公園」には、国立公園の自然景観の変化が取り上げられている。地域制自然公園では、区域内で特別の自然保護区域以外での既存の農林業が認められ、その産業によって景観の持続が図られている点の指摘がある。一方で、以前、田中先生からブナ林の自然保護の見解をお聞きしたとき、広い国土の中では、ブナ林が破壊されるところもあるが、また、放置されて再生してくる場所もあるのではないか、ブナ林全体を保護対象と考える必要はないのではないのではないかと言われていたことを思い出した。確かに、大山の開拓放棄地域でブナ林再生の地域に行ったことがある。人の関与によって成立する森林、人の関与を離れることによって成立する森林もあり、森林の盛衰もこうした関与の変化によって変化しているのであろう。時代的な人の森林への関与の変化が森林の盛衰に作用している。
 人の関与する薪炭林や人工林は、特に戦後に大きく変化しており、その放置が問題とされている。生産上の可能性が低くなり、利用されなくなった経済的条件が関与している。放置は自然林の条件であるが、放置したからといって、自然林が回復するとは言えない。
 薪炭林の多くが拡大造林の政策によって人工林に転換したが、薪炭林は、広葉樹林皆伐跡地の萌芽更新の森林と同様に、萌芽によって過密となり、共倒れ型の森林になりやすいのではないだろうか。また、人工林は林間の均等な立木配置によって、より、共倒れ型の森林になりやすいのではないだろうか。林木間の競争関係が顕著となるような手入れによって、森林の継続をはかる必要がある。さらに長期的には森林更新が問題となるだろう。