神部氏の難問 生物は考える

はじめに
 生物は生存、生育のために自然を利用し、精緻な思考を内包している。人間は自然を利用するために、意識を働かせて知識として、思考する。という課題が今回の神部氏の難問であり、この直観に賛同するための論拠を明らかにしなくてはならない。既に誰かが考えたことがあるように思うが、定かでないので独論で考えて見ることにしよう。神部氏は造園の教育者として生物が考える存在であることを教示することが不可欠と考えている。造園だけでなく基本的に教育の根幹となる必要があると述べている。これは難問にも答えざるをえないことではないだろうか。

進化論 科学的世界観
 この難問は、人間が考える動物であり、他の動物とは相違しているという、聖書にあるような考えと逆行している。人間は考える上で脳が発達し、言語を使用して考え、それを文字に表現することによって記憶を記録とすことができ、膨大な知識を蓄積することができた。しかし、なお、人間の脳は知識以上のの膨大な経験を蓄積することができると言われる。その潜在力は類人猿に結合しており、人間と類人猿との境界は言語であるが、言語となる記号をチンパンジーでもマスターできるという事実もある。合図という点では犬や鳥でも行なっており、環境の状態を判断し、群れなどの中で連絡しあっている。
 全生物はその適した環境によって生存している。環境に適して生存する上で個々の生物はその生存の機構を内包し、また、その生存環境を広げる上でその生存の機構や行動を変化させ、環境に適応していく。これは大いなる考えが作用していると言って良いかもしれない。こうした精緻な生物の力を古く、世界を創造した神のなせるもの考えられた。これに対して唯物論の考えで、科学でこの世界の創造の成立を明らかにしようとした。生物に関してはダーウィンの「進化論」が科学的な世界観を開いた。

古代神話
 古代神話は各民族が保有した自然と民族歴史との関係の象徴的な理解と言えるだろう。古代における文字の出現がその理解を記録し、今日に伝えられる。日本には古事記に含まれている。神話に出現する原初の神々は自然の事物を擬人化したものであり、また、それらの神は部族を守護する象徴となって民族の歴史に登場してくる。古代から文字のなかった原始時代の世界を遡って想像すれば、自然界の事物や事象は、呪術的な対象として擬人化されたのではないだろうか。擬人的な世界の理解は人間と自然の意識は未分化な状態と言えるのかもしれない。

「生物は考える」実感
 人間の思考は現実の直観から遊離し、思考の世界は空想や観念論に陥りがちとなる。自然の事物は思考の世界では、象徴化によって個別の状況から普遍化され、言語記号の自由な組み合わせで個別な事態の判断がなされる。この意識の作用が思考とするなら、生物が思考することはなく、思考は人間のみのものとなる。しかし、人間にとっても直感的な瞬時の対応が働かなくては生存することはできない。人間も生物の一種に過ぎず、生物として生存する上で、環境に対して感覚に基づいて行動する。その感覚を思考とすれば、人間の生きる実感は生物に共有する感覚であり、感覚を通した判断によって生存が成立している。