視線と風景

はじめに
 老眼が進行し、メガネがなくては文字の判読ができなくなった。遠景はさしさわりがなく、その点では全景の認識から周囲が把握され、一方、近景の事物の細部には注意がおろそかになっているようである。これは、視線が定まらないことと関係し、それは環境の中での自分の位置感覚の衰弱をもたらしているようである。メガネをかけていると近景ばかりが注目され、全景の知覚がおろそかになる。目の良いときには視線によって風景が構成され、遠景に近景が重なり、視線の延長に全景が知覚された。遠景に対してぼやけた近景で視線の延長が希薄になったといえるのだろう。これは環境認識にとって由々しきことである。
 子供の頃、近景の事物が興味の中心にあって、遠景の山々との連続感はなかったと思うが、地理感覚が生じて、遠景と近景が連続してきたように想像される。遠景は空の変化が憧れであるように、遥かな憧れの土地、あるいは見知らぬ土地の恐れを示すものであったかもしれない。

風景の知覚
 何度も書いてきたところであるが、風景の知覚は近代風景画にに示されたように、近代の個人の自立した社会関係と外界への科学的探求が前提となって、外界対象の客観的知見と個人の主観的知見が結合したところに成立し、画家の探求は風景の視点を明瞭にしたといえる。一方、主観的であることで個性的な風景の知覚は、外界に応じた視線に固定化し、個人の自由な視線を損なうものとなった。
 一方で定まらぬ個人の視線による風景は、社会的な共通項とならないままとなるが、日常の経験の共通性が自然な状態で共感となる風景を成立させているのだろう。そこで、固定化される風景と共感の風景との関係が問題となってくる。風景の視線の違いがそこにあるのだろう。視線の強度、視線の対象の違いが問題となり、風景の構成に影響してくることになる。

視線の相違
 老眼は確実に視線の強度を衰退させるものだろう。風景画で言うならば、画面の全体像と焦点となる事物の関係があいまいとなる。画家の若年と老齢の時期では絵画にどのように反映してくるか、検討する必要があるかもしれない。しかし、知らず知らずの内に日常の中にある視線の傾向を偏在させているおり、それが一般的な見方と誤解しがちなことを注意する必要がある。若いときの個性は、社会の束縛が無い場面で顕著であるが、年老いて常識人となってその個性が消えていくように見えることは偏見であるかもしれない。人により傾向が生じるが、それが一般的であるとはいえないだろう。

風景の感じ方
 個人にあって若いときから、年取っていくにつれて、視線が変わり、目にする風景も変わり、その風景によって生じる内的な感じ方が変わってきたことは否定できないが、どのように変わってきたのかは記録があるわけではない。しかし、この年齢か、人生の過程の変化から内面の変化が生じ、内面の変化によって瞬時に感じる風景が選択して知覚されるのではないだろうか。