事実と真実

はじめに
 歴史的な研究著述には事実が基礎となることには間違いない。しかし、年代的な事実の羅列が何を物語るかは、事実そのものではなく、推測である。推測が真実であるかは明らかではない。時代的条件と事実の関係が必然的な結合してる場合に、その関係は真実と判断できるのだろう。事実自体も時間とともに状況が変化し、風化し、限られた記録や人々の記憶だけが残される。事実の復元は記憶の鮮明さ、忠実な記録をもってしても困難である。限られた事実のつなぎ合わせて、真実を憶測する他は無くなる。
 しかし、真実と考えるものは何だろうか?真実が人の考えの中にあるとしたら、人によって考えは相違する。見る立場によって視点が異なることもあるが、真実を極める思考の深さによって相違するからである。様々な角度と事実をつなぐ論理の深さによって、真実が確からしさを持ってくる。それでも、限られた事実によって憶測できることは限られるだろう。また、真実はあるのか、状況の偶然によって成立した事実を真実と考えているだけなのかも知れない。それならば、現実自体に真実は存在しておらず、偶発的な結果が後に真実とされるのかもしれない。一人一人が真実と考えて行動しても、多くの異なる考えのもとで、真実の結果は生じないことが多い。
 事実は真実の考えも打ち砕くことも現実であり、それも真実ではあるが、それを真実の考えとすれば、真実を求める考えが否定されることになる。そこには、強欲な自己中心の人間の争いが残るだけである。古い戦略家はその争いを勝ち抜く真実を追求し、勝利の事実を作り出した。しかし、勝利が目的ではなく、国を守り、広げる理想が目的であったはずである。また、理想なくしては兵士の意欲を鼓舞することはできないだろう。現代が経済の競争社会である点で、古代の戦略家を現代の経営者に置き換えることができる。また、民主主義社会を誘導する政治家もそこに登場できるかもしれない。そこで、どのような理想かが真実となるのだろうか。一方で真実とは言えない虚偽に満ち溢れた現実を見出す。自己自身もご都合主義にもやむを得ないこととして虚偽に加担して虚偽を見過ごそうとしている。真実の探求など出来る訳がないではないか?