日常生活と森林との結合

はじめに
 森林に出かけるとその多様で変化する環境は、季節の変化とともに五感を刺激し、様々な興味を呼び覚ます。懐かしい植物や鳥や虫が小さな頃の驚きを再現する。しかし、出かけて戻ってくる場所は日常生活の場である。庭や鉢に森林からもらってきた植物を植え、育てても、森林は生活の現実からたちまち遠のいて、森林は現実から逃避した憩いの場であることに気づく。生活は労働に追われ、経済によって安心を得ている。原始の森林との結合した生活は単なる空想でしかなくなっている。

都市生活と森林との乖離
 森林は土地が分割され、所有されているていることが、生活と森林を乖離させている原因なのであろうか。戦後の地方の禿山に親しんだ我が身を振り返れば、森林は農村生活と結合して利用されており、誰が入っても生花や山菜を採取し、手入れされた山道を自由に歩くことができて、子供には格好の遊び場だった。食糧難で山道を親に連れられて山を越えていく農村への買出しは生活環境の一部だった。都市近郊に転住して、一挙に森林は身近には無くなった。雑草の生い茂る僅かな空き地や宅地の間に残存した農地は子供の遊び場にはなったが、整備された住宅地のうらぶれた存在でしかなかった。遠くに見える山はあまりにも遠く、近づこうとしても時間が掛かりすぎた。
 社宅の宅地は食糧を補う場から、庭の楽しみを広げる場へと変化してきた。池を作り、花の咲く植物を植えて、彩られた場所へと変わった。しかし、池に入れる魚や水草は、周囲の環境から見出すことはできなくなった。庭木は親しんだ山の樹木とは異国のものだった。庭を構成する要素は土も材料も生物も買いに行ってお金を払うものとなった。燃料は薪からガスへと変わり、工作のための木材も買ってこなくてはならなかった。日常用品にはプラスチックの製品が普及し、めったに行かなかった映画館は日常のテレビに変わった。
 森林は電車でハイキングに休日に出かけるものとなった。駆け回った野山は、整備された歩道で案内標識を目印に迷わずに歩けるものとなった。空き地は失われ、遊具を整備した公園が出現したが、そんな場所は魅力がなかった。もう、農村も森林も生活の場から隔絶していった。

森林への接触
 「森林は空気のような存在で特に意識したことはない」とは先日知人より聞いた言葉である。これは何を意味するかを目下考えている。農地の合間の樹木や樹林、社寺の境内林、建物の敷地の庭木が都市の隙間を緑とし、都市の周囲の山地は森林で覆われている。そんな都市環境で生活していれば、森林の風景は空気とともに存在しているといえるだろう。気がむいて出かける散歩に樹林や林内への接触も生じる。そんな風景や環境を受容すれば森林は空気のように無意識に存在するものといえるのだろう。
 そうした森林の存在を受容して生活することで様々な森林に様々な形で折々に接触することができるだろう。しかし、それ以上に森林を利用することはない。