燃えない薪と使われない暖炉

はじめに
 9月17日生駒で森づくりフォーラムが行われた。森づくりは赤井先生の生涯をかけて取り組んできた内容の講演が放置林の有り様に大きな転換をもたらす予兆を示した。大阪の都市民にとって森林環境の存在が大きな意義を持つものであることを、中嶋先生が実証の内容を過去に求め、果敢な提案で未来像を示唆した。
 府民の森の指定管理者の大阪府府みどり公社が主催した昨年の研究会で府民の森の森づくり計画の論議を行ったが、計画の基本を作った清水さん、指定管理者を分担する里山サロンの久保さん、研究会で森林資源の利用促進の立場の委員の川俣さん、研究会会長で議論のまとめを行った増田さんがパネルディスカッションの意見で、森づくり計画の方針と実際、検討のあらましが示された。赤井先生に森づくりのまとめを行っていただき、中嶋先生に都市民と森林の資源と環境を巡る動的な関係の展開に森づくりの意義を位置づけてまとめを行って頂いた。

使われない暖炉
 中嶋先生の話の中に、暖炉を設置した人が薪が得られないために、暖炉を放置している話があった。日本では暖炉は洋間の装飾品となっていることが多いことに気がついた。岡谷で明治に製糸業者が作った和洋折衷の邸宅に暖炉が設置されいるのを見かけたが、確か実際に使えるものだった。信州では石油の高騰などから薪ストーブが増大している地域が出てきて、薪生産が追いつかない状態が生まれている。森林資源が豊富な信州では薪が枯渇することは考えられない。
 暖炉やストーブは暖房として使われてこそ、生活に必要なものである。また、その暖房は火を見て暖かさを感じるところから心豊かにさせるものである。装飾としかなっていないのでは、皮相な洋風の物まねでしかなくなる。薪資源に溢れる森林を眺め、暖炉を装飾にして暮らすことは、暖炉を設置した願いとあまりに大きなギャップである。

燃えない薪
 都市民の暖房や調理の燃料に山地から薪や炭が運ばれてきたことは古くからあり、囲炉裏、火鉢、七輪は戦後まで使われていた。石油やガスがこれらを一掃し、薪炭生産を衰退させたといえる。
 府民の森の暗くなった森林の手入れのために伐採したコナラを薪にして利用しようという試みがある。薪の資源は豊富であり、今後も森林の手入れが必要となることは間違いない。しかし、森の手入れが環境のために行われ、伐採された木は残材であり、その残材利用のための薪づくりでしかないというのでは、森づくりとはならない。薪づくりを目的とした森林は薪炭林であり、萌芽更新によってコナラ林が維持される。
 残材による薪生産を森の工作館の久保さんが始めたが、1年間乾燥させないということがわかった、薪を割るための機械、その作業量、積んで乾燥させるための場所と雨の当たらないための処置など薪づくりも労力のかかる作業であり、価格も計画的に合理化しないと価格が高価なものとなってしまう。
 森の工作館に薪ストーブを入れ、実際に使うことになっているが、多くの薪を作っていくとなると薪の購入先が問題となる。みどり公社の白井さんが苦慮している。まずは府民の森のキャンプ場で使うことが考えられている。いずれ、暖炉を入れた人々も薪がたえるようになるかもしれない。
 森づくりが薪づくりを通じて、生活に使われ、森と生活が連結する。森に出かける楽しみもまた、倍加するのではないだろうか。