風景の主体 野性

 睡眠は眠くなって寝る、最近は3時過ぎが日常的となった。朝は自然の目覚めで9時すぎとなる。食事は空腹を感じてからとる。時に昼まで食事をとらずに、一日二食となることが、多い。食事は適度な満腹まで、しかし、干しブドウやピーナッツ、乾燥バナナなどがやたら食べたいことがある。散歩は歩きたくなった時、出かける必要があった時にする。時間にしばられないことが、こんなに自由で、自然であることかと、生きる実感を得て、感謝する。夜、キツネが国道を渡るのを見た。この寒空にやせ衰えて、市街に食を求めて彷徨いでたのか?空腹は飢えとなって食物を求める。眠りは活動のために必要な休息なのだ。生きる活動に身体を使い、感覚を働かせる。野生動物は最大限にその力を発揮して生きている。自然に従う生活は、人間が野性的な生活を回復することなのだ。
 文明に対して未開の種族は、野蛮といわれた。しかし、文明の衰退に乗じて、野蛮が支配し、新たな時代を再生させた点で、文明と野蛮は補い合う関係があったのかもしれない。しかし、文明は世界に行き渡り、人間を支配している。すでに、ゴーガンの時代に文明人の逃げ場となる原始の楽園は存在しなかったのだ。原始的生活は決して楽園ではなかったし、自然の厳しさに支配されていた。文明はその厳しさを克服するものでもあった。安心と満たされた生活こそ、楽園であったのだろう。未開を喪失させ、文明に浴する生活は楽園を実現したのであろうか?
 戦後の窮乏の時代に育った私は、現在がいかに豊かかをしみじみと感じる。千円で抱えきれない食料を買い込んで帰ることができるのだ。冷蔵庫には蓄えに満ちていて、好きなものを食べることができる。食べるもののなかった時代、食べるものがすべておいしかった。焦げたご飯の熱いおにぎりはどんなにおいしかったことか?飢えることは不安だが、満たされた時に大きな喜びを与えてくれる。個別な本能のままの欲求を脱して、野性の厳しさを取り戻さなくてはならないのではないか。
 感覚能力は先天的に備わっているが、それは野生生活のもとで不可欠な能力であったといえる。今、年老いて、目も見えにくくなり、耳も聞こえにくい。野生動物として生きておればたちまち、肉食動物の餌食となるか、飢えて死んだであろう。その限界を超えて長らく生きているのは、社会と文明の恩恵であろう。見えにくくなり、聞こえにくくなり、足が覚束なくなっても、その自然の条件に従がって生きることができるのだ。肉体的能力の衰えを嘆く必要もなく、甘受して、その中で生きる。
 文明人自身が野生の能力を退化させ、退化は歩く能力と交通手段の発達のように、能力の充足と補完がもたらしている。様々な条件で生きる可能性の範囲を文明が広げ、それをどのように選択するかは個人の自由となっている。次第に衰える能力も、若い時代にはその能力が増大することを感じて希望に満ちていたのだ。若い時代の能力拡大への希望は野性への希求と重なっている。野性の希求は、どのような環境にも適応できる可能性を広げるものであった。野性の能力の中には、環境に適応させる知性が含まれたものといえるだろう。学生時代にクラーク博士の銅像の立つ構内に接した。「少年よ大志をいだけ」の文が刻まれていた。しかし、大志ではなく、野望をいだけだったのだと誰かにきいた。野望、野心は文明を覆した野蛮人に通じている。野性的な若者に既定の体制を乗り越える展望が必要なのだ。
 人間の野性の根源は、人類の進化とともにあったことが言われている。類人猿のチンパンジーであった時代に、森林環境がその生活空間であった。樹上生活への適応が手の進化につながったとされる。しかし、森林の衰退によって草原が生活空間となり、草原への適応が直立歩行を必要としたされる。草原の見晴らしは遠望のための目の能力をも進化させた。人類の祖先には森林は果実が豊富な安楽の地であり、草原は草食動物を食糧とする厳しい環境となり、肉食動物の脅威も存在した。人類は群れを作って、その厳しい環境で生存し、様々な能力を発展させたのであろう。人類は文明によって野生の状態を急速に脱出したが、その動物としての能力は野性として持続している。文明の中で、肉体的能力を退化させてはいるが、森林や草原の環境における体験は、野性の能力を取り戻す契機となることが仮定されると考える。しかし、より以上に野性に従うことによって、自然の環境と一体となる本源的な霊妙さを体感するのではないだろうか?