庭の千草と山野草の悲しい物神性

はじめに
 超訳資本論」は身の回りの事象に多くの示唆を持つ。山近くに住む人の庭に、珍しい山野草が植えられている庭がある。一方で、どこかで買ってきた園芸種で彩り豊かな花壇の庭もある。花壇の庭はおばあさんが、山野草の庭はおじいさんのものである場合が多いと考えている。草花や山野草を愛する山村の人の心情はほほえましい。しかし、山野草に高額の値段がつき、安易に山村の花壇の草花の種類が入れ替わる点に悲しい物神性を見出す。

庭の千草から
 花壇の草花は、都会の庭と違って、庭の千草と歌われたような懐かしい種類が見られることに一層愛しさが感じられる。山村の人はなかなか、園芸種を購入できる機会が少なかったのであろう。山村には珍しい園芸種の草花から種子を取って繁殖し、人に分けて広まり、長く受け継がれたから、懐かしい草花が山村で生き残っているのだ。イギリスのオールドローズが山村の庭から再発見されて復元された話があるように、日本の庭でも大正、昭和初期の園芸種が山村の庭に残っているという。とある園芸家が山村の庭を見に来たことがある。
 そんな貴重な庭の千草とは知らずに、人々はただ、昔懐かしい花壇を維持してきた。しかし、新しい園芸種が山村の販売店にも見られるようになって、目新しいパンジーいやビオラが植えられるようになった。山村にも園芸種の目まぐるしい流行に左右されるようになったのであろうか。百日草や矢車草、鶏頭などを見つけるのも難しい。一緒に楽しみ広まった庭の千草から個々に華やかさを競い合う園芸の庭へと換わったのであろうか。そして、都会の庭で流行が庭の千草に回帰した時、山村にはみすぼらしい華やかさが残される。

山野草と自然保護
 山村の山野草は野にあるもので、庭に植えるものでもなかった。草刈場の草原から神棚や仏壇に飾る花を切り取ってきた。普段は野の花として楽しまれたものであろう。山で出会う山百合の類稀な美しさは出会った人でなければ、わからない。園芸種でなくても野生の花の持つ美しさは、その偶然の出会いとともにある。山村から草原が失われ、多くのありふれた野草が絶滅危惧種と言われるようになった。目だって美しい山百合やササユリ、キキョウなどが山野草として採取され、野から姿を消していった。採取された山野草は庭に移植され、庭を彩ってはいても、もう、新鮮な出会いはなくなった。そんなところで、自然保護を言っても、既に破壊の大きな原因は明らかであり、いかに、禁止してもは自然保護は困難であるだろう。そして、新たな草原に、放置されたスキー場やゴルフ場、林道の法面でさえ、野草がよみがえってくることがあるだろう。

山野草の物神性
 野草に物神性を見るとは、なんということであろうか。商品に物神性―金銭的価値が見出されること、野草が商品化され、金銭的価値とされる時、野草はその野を意識する価値を失ってしまった。葉についた雨の雫が陽光に照らされる輝く様は、どんな宝石よりも美しい。そこには物神性は存在しない。宝石に物神性がある点で、宝石と比較すること自体が、露の輝きの価値を損なうものだろう。野草も同じである。金には比較できない、生命の輝きがある。野にあってこその価値である。野草いや自然が物神性を持ったとき、人間たる精神が物質化していることになる。
 金銭や労力は、野草を金銭ではかり、庭に囲い込むのではなく、野草を育む野や自然を護り、育てることに使われるべきなのだ。そして、野草が価値あるものとなって、人間に恩恵となる喜びを与えてくれるのではないだろうか。