私の考える造園論

はじめに 造園の普遍的論拠
 ザーリッシュの森林美学では、美がいかに森林に適用されるかが、最初に述べられている。美が真と関係し、善とも結合している。真善美は人類究極の理想とする理念であることが、古代ギリシャで既に問題とされており、無数の探求と実践が行われてきたことである。しかし、この深遠な理念も日常生活に結合していなければ、何の意味も持たない。哲学の祖と言われるソクラテスに帰することになる。
 理念を追求するためには、方法が必要である。美にとっては、空想を実現する創造が、真にとっては仮説を論証する実証が、善にとっては理想を実現する実行が、日常的に行いうる方法であろう。人間も単なる動物であり、生きるために必要なことをしているだけであるが、言葉を使った意識によってその行為を個人から、社会、人類へと普遍化しているといえる。
 造園とは何かを理念と同じように日常の次元に還元すれば、環境に関する人間の働きかけであり、新たな環境を作り出すことである。新田によれば、環境への適応と環境の創造との循環的繰り返しによって成立する新陳代謝であるとするメタボリズム論となる。
 造園がなぜ必要とされてきたかは、自然環境に適応して発達してきた人間が、自然を利用する技術を身につけ、自然環境を破壊し、再生させる必要があるからである。あるいは、手にした技術で、空想の楽園を生み出すことができるという理想を抱くからである。われわれが、庭を目の前にして何をしようとするか、何を生み出そうとするかを考えてみると良い。自然と人類の問題の深遠さは持ち得ないにしても、良い環境を求める熱情が生じることは確かであろう。

都市からの造園論
 都市の形成は、古代に遡り、近代に普遍的生活環境となった。その原因は歴史的な社会基盤の変化によるもので、共同体社会から資本主義経済による個人主義社会への変化が、都市的生活形態を普遍化したといえる。共同体社会の土地共有から土地私有が拡大し、資本主義社会では土地私有を土地の商品化にまで到達させた。
 個人による土地の占有が外部に閉鎖的な庭園は、古代の共同体社会(アジア的形態と専制国家の成立)とともに支配階級に見られるようになる。資本主義経済による市民社会によって、小区画に分割された住宅地が市民の居住環境となることによって、個人庭の様式が広く一般化されてくる。一方、共同体広場は、都市形成とともに都市民の公共広場となって、個人の占有する庭園と別個の造園空間を持続させ、不特定人口の集積する近代都市では、都市的生活の基盤として公共空間の拡大が必要となった。大庭園の公共化、個人庭園の開放化も都市空間の形成に必要であった。都市の過密化は都市の人工化を極度に高め、開放的空間と自然環境の持続の必要さを意識させるものとなってきたからである。

生活環境と庭
 それにしても、人々が居住するところ、敷地があれば、庭が造られるのは、なぜだろう。住居もあまりにも、多様であるが、庭は住居に合わせて多様である。庭が住居の一部であるのだから当然のことではある。敷地が囲われ、庭が戸外の閉鎖空間となれば、いっそう、住居の一部となるだろう。恵まれた人は住居からの眺めを楽しめる敷地を持つことができる。眺めを借景とした庭をつくることができる。庭は眺めの前景となり、居住空間は外部への開放をえる。
 こうした庭の造園に、専門の庭師、造園家が建設段階、管理段階に関与しているのであろうが、庭つくり、庭いじりは、居住者の趣味によるものである。各所の個々の庭には、居住者の生活と庭師によって造られた骨格と居住者の趣味、敷地外との関係などの工夫と日常を見ることができる。