森林と公園

はじめに
 ザーリッシュの森林美学において、森林と公園の区別は、施業林に公園的改造を行う場所を区別することが問題であった。施業林の目的は林業生産すなわち功利であるが、公園的な目的とは相違している。公園は休息沿うための施設、広々した視界が要求される。しかし、公園利用に含まれる森林美と施業林における森林美の発揮との関係は関係と区別が何かが問題であったのだろう。
 しかし、日本では森林公園を作るに当たって、公園専用の場所として森林が扱われ、施業がなされない状態が一般的である。林業技術も功利の目的が適用されるのであって、公園のための森林管理上に林業技術を適用しようとしても、それは森林連続して管理する施業ではなく、枝打ちや間伐などの保育作業の一部に止まることになった。そして、目的は造園的な修景でしかないのである。しかも、造園技術者は植栽による景観は生み出せても、もともとある森林に美を見出し、その美を向上させるような観点を持ち合わせたはいない場合が多い。そこには、森林生態学の基礎的な知識が必要といえる。森林公園のされた場所では、二三の知見であるが、放置された森林、公園化された森林、造園空間が対立的に併置されている。ザーリッシュが求めた、公園から森林への自然な移行は見出せない。

森林と公園の対立
 森林が公園化されると、森林が伐開され、平坦な道路を作るために、斜面が切り崩され、人工的な道路空間によって森林が分断される。園地の広場を作るためにも森林は邪魔となり、すべて、芝生とされるか、一部、林木が疎開して残されるだけである。しかし、残された林木が程よい緑陰と風景にどれだけ寄与するかは後になってしか理解されない。その時には手遅れになっている。
 園地や園路を囲む森林があるのに、造園的な植栽が行われ、人工的な植栽が森林と違和感を生じさせる。後の管理も一層その格差を増大させる。また、植栽された樹木は成長とともに過密となり、不自然さと不調和を際立たせることになる。
 公園のための造園が強調されるほど、森林は生かされることはなく、手入れがされないまま、ますます、みすぼらしくなっていく。折角の森林を生かした公園の意図が挫折することになる。森林公園であるなら、森林を主眼に考えるべきだろう。
 森林を公園とするか、自然保護地とするかが、対立したことがある。大々的に開発するか、全くそのまま開発しないか、これは相反する問題であるので対立は止むを得ないことである。しかし、里山の豊富な生物相を愛する人々、市民の休養の場を確保したい人々は、同じ市民であり、対立した関係にはないはずである。

森林を主眼とした公園

森林公園では武蔵丘陵森林公園が著名である。私の関係した公園林や森林は南箕輪村松本市にある。