森林・公園・庭園

はじめに
 森林美学において、ザーリッシュは森林と公園、森林と公園が共存させるべきではないと述べている。なぜなのだろうか。日本庭園は自然を学び、自然に従って作ることが原則である。しかし、日本庭園は自然そのものではなく、自然のエッセンスである、要素や部分、法則を再構成したものなのである。日本庭園には森林や湖水をそのまま、取り入れることができないだろう。ザーリッシュの庭園や公園は西洋庭園を指しており、その芸術的価値を大きく評価している。しかし、森林と公園と庭園は異質であり、区別すべきとしている。
 西洋庭園は中世の城郭にあった囲われた花園、さらに、古代の住居の中庭に起源が見出されている。これは畑に草花が植えられたようなものであり、園芸の領域で、自然が意識されたものとはいえないのであろう。イタリアのルネッサンスの庭園は自然の広がりの中に庭園を開放しており、フランス整形式庭園はこれを大規模化し、森林の中に作られ、あたかも、森林を支配するかのように庭園が配置されている。これは直線、円などの幾何学的な形態と構成が自然の力学的法則に一致するという観念によって、自然的な庭園であるとも考えられたということである。イギリス風景式庭園は丘陵の草地に森林が散在する風景を開放的な庭園の理想とした。庭園の中心であった花壇が否定され、パークが庭園の中心となり、それが民衆に公開されるとともに公園とされた。
 ザーリッシュが森林と公園と庭園を区別するのは、庭園が園芸であり、公園が放牧地や狩猟地であることから、当然のことであったのである。

森林の庭園化
 フォレスト・ガーデンと言う本の題名は全く願い下げである。自然風庭園は近年の流行でもあるが、日本庭園の深遠な自然の再現ではなく、公園が園芸的な庭園から野の自然に脱するためのものであるのではないだろうか。公園内の樹林の林床が芝生にされて、広場の空間が広げられることは、風景式庭園の中でも見られたが、広葉樹林の春植物の林床が自然風庭園とされ、樹林の下に水仙などを含む様々な春植物が植えられているが、まとめて整形式とすれば、花壇と相違なくなり、森林と園芸の違和感が生じるであろう。林床が単一植物で覆われることは稀なことであるので、森林の状態と無関係に林床に植栽したり、単一植物を繁殖させることは、自然風の造園とは異質である。
 自然風の造園は、日本庭園と自然から学ぶ点で共通している。自然は複雑であり、鉱物と気象、多様な生物が複雑に関係し合う有機体であり、人為の介在しないで、自律的に持続する環境である。人工の自然を、より自然に近づけるために、造園家は常に自然を学び、自然に従う必要がある。自然に従うことによって、人間の生活の場をデザインするのである。森林を庭園化することなど、もっての外と言わなくてはならない。樹木の電飾は、昼間には樹木を損なう無残な姿となる。夜の暗闇、静寂をも損なっている。

森林と造園
 自然に触れ合うために森の中に入る。森林で作業を行うために道が通じている。森の入る人は、その道を選んで利用する。道がなくては森に触れることはできない。しかし、その道は作業のための人工的な施設であり、自然のものではない。道のない林内を歩くには藪に足を取られ、行く先も分からなくなって難儀なことこの上ない。山菜採りならいざしらず、森林の自然のふれあいどころではない。
 ザーリッシュは林業家に、森林の社会的空間としての役割を意識することを訴え、造園的な配慮を求めている。