街路樹の意義

はじめに
 都市の真夏の緑陰に樹木は欠かせない。街路のアスファルトは熱を帯びて、都市を加熱して、風さえも遮断するかのようである。秋になると酷暑を忘れて、街路樹の落葉はゴミとして嫌われ、まだ、紅葉もしないうちに剪定が急がれる。
 以前、街路樹の無剪定を宣言する都市がいくつか見られたが、今日どうなったのであろうか。先日、造園業における街路樹の講演会に出席したが、樹木の腐朽を測定する機械と実際の剪定の見学が主題であった。市民生活にどのように街路樹が必要かの議論は全くなく、造園技術だけが問題とされ、その技術も質問は機械の値段がいくらかというものであった。
 街路樹が過密な都市空間の中で、狭小な空間の中で、やっと生育し、また、剪定までされて、気息奄々と生きている姿は、街路樹の効果を限定し、市民にその存在を忘れれさせる程、希薄なものとなっている。しかし、都市空間自体が悪化すればするほど、それを隠すための街路樹の効果が顕著となるという関係も生じているのだろう。

街路樹は必要か
 市街の電柱、電線を撤去した都市空間が見られるようなり、市民の電線の見られない空間への要望が高くなっている。しかし、費用がかかるために、無電柱の空間は限られている。街路樹の上空を電線が走り、街路樹はその下でしか生育できない。また、街路樹は歩道に植えられ、通行の場所と車道にはみ出さないようにして、生育している。また、その植え枡は小さく、根茎の生育も限られている。このような狭小な生育空間に押し込めるために、剪定が必要であり、大木となる樹種を街路樹とするには、無理がある。
 美しいとは言えない街路空間に、剪定されて、人工的な街路樹が列植されている姿で、街路樹はどのような効果があるというのだろうか?広々した大通りに自由に伸びた樹木に人々はほっとする。街路空間に街路樹を植えるのは無理なのに、何故、街路樹が植栽されるだろうか?

何故、街路樹の剪定は必要か?
 樹木は種類によって相違し、環境に適応して個々の個性的な樹形を作り出す。剪定はその樹形の変化を打ち消し、多大の費用をかけて、一律な置物に変化させる。都市空間の樹木の自然の生育を確保できる余地があれば、自由に伸びる事ができる。
 しかし、新宿御苑の外壁の道を歩いていた時、あまりの高木に公園外の市街が圧倒され、公園のはみ出した枝だけを切り落としただけの林縁には悪印象を持った。街路樹も剪定するからこそ、狭小な都市空間とのバランスがやっと保たれているのかもしれない。
 ところが、講演会では造園業者は街路樹の剪定に美学を見出そうとして、どの木も同じ形、大きさの円錐形としてる。どの樹種も皆、同じ形となる。街路が整形式庭園のヴィスタを構成することになる。しかし、中央は殺風景なアスファルトの車道である。
 熱田神宮に行った時、面する街路の街路樹が同様な整形式の円錐形樹木の列植が見られた。近くに住む知り合いの話では、熱田神宮の森を縁取るような自然樹形の街路樹が剪定されて今の姿に代わったという。道路管理者からは、車道に枝が突き出て交通の障害になり、隣り合った並木が混み合ってきたので、剪定が必要になったとの説明を受けたとのこと、快い緑陰が失われたことを当人は残念がっていた。
 剪定は車道側に必要であるとしても、隣接した木が混み合ってきたことに対しては、抜き切りして除いた方が方が良く、歩道側には十分空間があり、自然樹形で緑陰を残してやれば良かった。剪定は最低限に留める事もできたはずである。等間隔で一律な樹形の街路樹は、神社の森とは違和感があるし、歩行者の緑陰が失われては、街路樹の意味が失われてしまう。

人工都市の自然としての街路樹
 街路樹は必要であるが、何故、必要なのかを十分に考えて、管理方法を決定すべきだろう。街路樹の生育が十分確保される空間が必要であり、街路を広げ、建物を道路から後退させる必要がある。しかし、樹種によって生育空間の大きさは相違する。人工都市に自然を導入することから、自然の樹木の成長に都市空間を提供するか、過密都市の解消に向けて、今は移行の時期ではないだろうか?