風景論議

はじめに
 風景は風景画によって成立した環境の眺めであることをA氏とともに確認した。A氏によれば東南アジアのある国で風景という言葉がオランダの風景画から生じものだと当国の人から言われたとのことである。私自身、ある中国人に風景が使われているか、その起源と使われる内容は聞いたことがある。全く、日本と同じであり、起源は定かではないとのことであった。中国には古く山水画があり、風景画は無いので、日本からの影響かもしれない。少なくとも透視図法は元の時代に西洋からの影響で成立し、日本の歌舞伎と同じく、演劇の舞台に影響を与えている。日本では浮世絵は顕著に影響されているとのことである。
 西洋でも風景画は近代の幕開け、ルネッサンス以来のもので、その端緒はレオナルド・ダ・ヴィンチに見られる指摘がある。なぜ、風景が近代人に顕著な眺めとなったのか?それが疑問で論文を書いたのだが、百冊余の印刷も霧散してしまったようである。自説が正しかったのか、その後の推敲も途絶えたままになっているので、再考したいと考える。

風景の所在
 風景に関する本は多数著されているが、現代日本では風景の悪化に関する嘆きの論が大きかった。しかし、それも景観計画などの風景改善の進展の中で、真の原因の改善もなく、可能な改善策への批判もないまま、論議が少なくなっている。風景自身が主体の問題なのか、対象となる景観の問題なのかも曖昧となっている。
 景観はドイツ語のランドシャフトの訳語として地理学者が作りだしたとされている。今日、景域という言葉の方が、適切ではないかとの指摘がある。景観の持つ、視覚性を無くし、地域性を強調するためである。しかし、英語のランドスケープの言葉がオランダ風景画に由来して、地域性に視覚性が付与されるようになり、ドイツの地理学も風景画によって地域の特性を示そうとした点で、地域性と視覚性を分離することは難しいのであろう。景観は言うならば、地域の視覚的特徴といえるのではないだろうか?これらは地理学者に任せればよいだろう。
 近代化の進展が風景を一般化し、世界にまで広がろうとする原因はなぜだろうか?それは風景を見出せなくなってきている現実によることが推察される。イギリスの風景画家コンスタブルは失われ行く放牧や水車小屋を探し求めて描いたということである。そのコンスタブルの風景画は、フランスの風景画家に影響を与えた。近代化によって失われ行く風景、機械化によって失われる古い農村、これらは、今や世界共通といえるかもしれない。もはや、古き良き、自然と牧歌的に共存した地域はどこにも、存在しなくなってきたのかもしれない。風景の対象とする地域だけでなく、主体自身が近代合理主義の社会に生きて、風景を見ようとする意欲を喪失しているか、異なる社会の移行の中で、両者の二律背反に悩むのかもしれない。
 風景模型を各国の人に作らせているM氏は、それぞれの思い出の中の風景を模型とするのだと話していた。その風景のあった地域は既に無くなっている場合も多いようである。風景模型はイメージの産物で、そこに戻ることはもうできないのか?日本のわれわれはどうなのだろうか?

過去の風景
 それぞれの人にと取って、子供の頃の思い出の風景はあるだろうが、良い風景だったかは疑問である。戦後の混乱した世情や殺風景な街角、そんな戦後の環境に子供にだって風景なぞ感じることはなかった。しかし、子供にとって、何もかもが不思議に思え、謎に満ちていて、地面に行列をつくる蟻、水路に満ちあふれた水棲動物、太陽の運行や寒暑の大気の変化、激しい雨風や雪は驚き以外何者でもなかった。禿げ山の貧弱なハギやツツジの彩り、光に輝く露のきらめき、類希な見た目の喜びだった。小さな雲が大きな嵐となったり、その雲に雷神が轟を打ち鳴らし、月に隠されたウサギがいいたり、そんな話に子供は聞き耳をたてる。それは風景とは言わないのだろうか?魚を猟り、トンボや小鳥を追って、どこまでも追ってゆく小さな原始人には、風景に満ちた世界で生きていたのではなかったか?
 そんな原始人が都会に出て行くと、とても息苦しい。以前の豊かな水路、自由な山地を探し求める。洪水の濁流に満ちた水路、すべてが風とともに揺れ動く樹木や樹林にほっと息をつく。やがて、小さな世界を地面や空想の中に描くようになる。