風致と景観・風景デザインと景観工学

はじめに
 景観に等級がつけられるのであろうか。自然と人工との関係で、より多く自然が残る地域、人工の比重が大きい地域で、量的な等級は簡単に出来るだろう。住み心地として自然と人工の割合を評価するとどうなるだろう。人工の都市で自然が不足し、自然にあふれた山村で人工の施設の不足が問題となるかもしれない、そうすると、程々の自然と程々の人工の中間に住み心地の等級の中心がくるかもしれない。自然の開発によって生活区域が拡大していくのであるから、開発段階として、最適な住み心地の状態があるかもしれない。また、発展から後退へと移行し、自然の回復が進むとすれば、後退のある段階が住み心地の最適値があることも考えられる。
 自由経済のもとで、開発は経済的利益によって進められ、放棄される。時代の変遷は、自然を資源として利用して、破壊し、また、荒廃させたまま、放棄していく、一方、開発による人工施設は地域の基盤として管理され、利用されるが、経済の動向によって住民でさえも、開発地に定住することができなくなる。
 自然を尊重し、その恩恵としての資源を大切に利用することと人工の施設とそこでの住民社会の持続のために、努力し、歴史を積み重ねてきた地域文化ともいえる生活様式の両立は、経済の動向を超えた人間的生活と評価でき、これは、その地域の住民の品位であり、景観の品位をかもし出すものではないだろうか。とすれば、経済的利益か地域生活の品位による景観の等級が成立するかもしれない。伝統を大切にする意識は、旧弊な社会への反発を内包し、その反発は近代的な功利主義に一度は結びつくだろう。さらにその物質的な功利主義は人間疎外を内包し、人間的な共同社会への回帰が生じることになる。こうした意識の変化が、生活を変化させ、環境を改変させるとともに、景観を変貌させる。

景観における風致
 迷いの無い生活意識と安定した生活様式、自然環境の利用とその尊重が、住民の共通認識となっている地域の景観は、住民自身が創り出し、評価している景観といえる。外部の人が、評価しようとした時、統一された景観を見出すはずである。何によって統一されているかは、住民生活であり、景観はその生活環境から醸しだされた空気に包まれている。この空気を風致と言ってよいのではないかと考える。一方、風致が感じられない景観は、統一が無く、混乱している状態といえるだろう。統一が無いということは、景観のまとまりがないということであり、景観自身が存在しない状態といえる。つぎはぎだらけの住宅地が広がる都市近郊は、混乱した景観の例であり、特徴による統一のなさで景観喪失がもたらされている。
 自然の制約によって残存した自然の要素が散在する時、かろうじて、混乱した景観の中に、景観の境界を見出すことが出来る。そこで初めて、景観が風致をかもし出すものであるのとが、意識されるのかもしれない。しかし、それは、分断された景観の境界なのである。例えば、河川や崖は、地域を分断し、此岸と対岸は別の地域であり、景観が相違するが、それぞれの景観は混乱していて特徴は明確ではないということがある。地域に特徴と統一があるなら、このような境界の要素がなくてもおのずから、景観を区別する境界を見出すことが出来るだろう。河川自身が景観の境界ではなく、景観の中心になりうる要素であり、その場合には、河川を中心とした風致が存在することになる。

風致から風景が見える。
 風致は環境(行動の場所)を快感として感じ、空間を五感で知覚する。風景は行動の場所から、環境の全体像(景観)を視覚的に知覚する。行動の場所が風致であり、景観が風致による統一感によって成立しているという関係の中で、風景の知覚が成立しているということができる。そこで、風景は風致の一部と考えられる。しかし、住民は環境の中で行動し、知覚する点で、風致の感覚を日常化し、その一部として風景を垣間見るのであるが、外来者、風景に印象付けられて、初めて、その場所の風致を意識する。風致を意識することによって、住民の生活への共感を見出すことになるのであろう。

風景計画と景観工学
 日常生活に垣間見える風景、外来者に印象付けられえる風景を、残そう、良くしよう、作り出そうとして、努力することが多い。景観計画、緑地計画などが作られ、場所の改善として造園計画が作られる。しかし、どんな風景を生み出したら良いのか、なぜ、ある風景を残そうとするのかは、漠然としており、散漫である。これは、現代社会、現代生活の混乱によって、景観が成立してこないことと関係しているのではないだろうか。
 街路樹が植えられる。緑陰ができ、花が楽しめる。通行する人に、自然あふれる街が演出できる。しかし、その場所になぜ、その樹種が植栽されたのかという必然性はない。外国樹種、環境に適合しない樹種が進出し、自然環境と違和感をもたらす。河川敷に自然に生えたヤナギ、繁殖し手におえなくなったニセアカシアには見向きもされないばかりか、目の敵にされてしまう。山地に植えられたサクラの木、育つまでに時間がかかり、やっと、育って花が満開になった時、山の木々との違和感が顕著になってくる。柳川のスズカケノキプラタナス)は歴史的景観、親しんだ歌によって別であるが。・・・
 水の無い場所に、水路や泉ができ、川の護岸は人工的に固められ、橋の下で見栄えのしない流れてなり、自然を取り戻そうとして、かえって自然から離れている。家々は、それぞれが様々な擁壁を巡らし、色とりどりに壁と屋根によって、派手な混乱を増幅させている。街に併せた住居がかえって街の統一を乱している。風景計画も風景を統一しようとして、統一した風景を混乱させることにならないか。これは、風景が何に由来し、生活者の審美眼を忘れてしまうところが問題となるではないだろうか。もっと、良い例を提示することが望まれるが、悪い例で説教がましくいうことも問題であるかもしれない。
 景観工学は、土木施設に由来し、景観が土木施設自体と土木施設からの景観に限定されることを考えなければ、無意識の内に景観を混乱させることになる。形の良い手すりのついた橋、しかし、遠くから見るとその装飾は橋の姿を景観から浮き上がったものにすることがある。
 ルネッサンスの芸術家には、画家、彫刻家、建築家を兼ねている場合を見いだせる。ミケランジェロはその典型的な芸術家であろう。透視図法もそうした芸術家のブルネッレスキーが見出したといわれている。建築物の集合で構成される都市、その都市空間に建築を配置することによって、都市景観が構成される。ローマのミケランジェロの作った広場、建築、彫刻の総合は、都市景観の部分を構成している。ギーディオン:「空間・時間・建築」参照
 庭園においては、この景観デザインは適用することが容易であり、庭園は景観デザインとして構成され、庭園の持つ閉鎖的なイメージが景観デザインの開放的なイメージに結合したといえる。一方、透視図法の視線が都市の天空から、地上の自然に降ろされ、風景に目が向けられた。そうして生まれた風景画の端緒が、ケネス・クラークによれば、レオナルド・ダヴィンチの絵画の中に見出せる。モナ・リザの背景の山の風景もそうである。かくして、風景画が隆盛し、その風景画によって、イギリス風景式庭園が生み出され、風景デザインとしての造園へと到達する。ブレンダ・コルビン:「土地とランドスケープ」参照
 この、風景デザインと景観工学はどのように結合しているのであろうか。風景デザインは庭園を風景画の絵画的視点として景観へと広げている。芸術的創造と考え、デザインの領域に入れられる。一方、道路景観は、新田が追求した点では、高速道路の機能植栽であり、通行車の安全、指示、環境などに役立てられるものであった。現実的に、外部環境に対して、高速道路は、排気ガスや騒音、振動の発生源となり、周辺環境から遮蔽されることが多くなった。道路からの眺望は擁壁に閉鎖されれば、景観は無関係となる。道路工学は、こうした問題に環境科学や心理学などの基礎をもって対処しなくてはならないが、景観工学は道路工学の一端をどのように担うのであろう。