北海道の風景

はじめに
 北海道には学生時代の5年間を過ごした。時代は高度経済成長の開幕する昭和35年から40年となる。その間に折に触れて各地を旅行した。特にどこかを目指したのではなく、未知な大地の北海道を見聞したかったからといえる。しかし、自分の経験はわずかな点でしかない。わずかな経験に目を開かせるのは、知識であるので、北海道への関心は、現在に到るも北海道に関した本に目を向けさせる。また、林学の講義において館脇先生の植物学、犬飼先生の動物学の講義から感銘を受けた。それは、北海道の自然の一端を専門の見地から理解させるものといえる。一方、北海道の開発によって失われていった自然への愛惜を感じさせるもであった。断片的な自然も以前は大地の広がりとして、豊かさを持続していたこと、それは俵さんの「北海道の自然保護」にも明らかとされているが、直接、講義の先生から実感が伝わってきた。私には過去の思い出と知識によって、北海道の風景が意識されており、この心象風景を記述しておきたい。
 小池先生が森林美学の講義に、このブログの一文を講義資料として取り上げ、受講した学生さんの論述した文章を私のもとに送っていただいて、学生さんの現状の風景に関する意識に感銘を受けたことが、この記述を思いつかせた理由である。過去の豊かな自然、開発の労苦を基盤とした、真の北海道の風景があるのではないか、そこに迫る覇気を若い学生さんの記述に感じる。
 
森林美学の背景
 小さな頃、野山に遊び、野山から庭にコケや樹木を持ち込んで小さな庭を造っていたところから、造園に関心を持って、大学に進んだ。大学の相談室で今田先生が良いと勧められ、喜んで今田先生のいた林学を学ぶことにした。林学では上記の先生やその他の先生方から林学の諸専門を学び、実習による体験も得られた。今田先生の森林美学の講義も留年したせいで、2回受けることができた。造林学教室で卒業論文を書くにあたって、斉藤先生から、今田先生の指導をお願いしていただいた。今田先生にとって造園を学んでいない学生を指導することは大変であったであろう。方向の見えない私に今田先生は様々な本を貸してくれた。一週間ごとにその本を読んで、書評を作ったが、私の見えない方向に合致する本は少なかった。その中で上原敬二「樹木学」を貸していただいたことを覚えているが、造園材料の基礎と考えて、私には役立ちませんと返したことがある。
 しかし、今にして、村山が卒業論文にした樹木の美が森林美学の章を構成しているところを見れば、、新島・村山「森林美学」からみれば、樹木の種ごとの特性を活かすことが、森林美育成の目標であり、造園にも通じる問題だったといえる。田村、上原らが目指した森林美学を、北海道で新島が著そうとした意図は、北海道の天然林の豊かさが森林美学に合致していることを示したかったのではないだろうか。開拓によって森林の開発が進み行く時代に、森林保護学の分野から、森林の木材資源としての価値以上に、森林美の価値を示す必要があったのかもしれない。戦後にも森林開発が進む中で、館脇先生の嘆きにも通じている。

森林風景
 北海道の森林は、国有林、道有林の占める割合が高く、これは、アメリカの開拓地の分譲と同じように、最初に国有地としていたことに関係し、分譲しなかった土地が、国有地、公有地として残されたのだろう。明治の開拓以前は、アイヌ民族の土地であり、狩猟民として豊かな森林を生活の場としていた。
 そのような天然林は開拓と木材利用によって失われ、さらに、山林火災、戦後の1954年洞爺丸台風などの災害によって、大きな被害を受けて衰退していったのだろう。豊かな天然林は知床などのほか見る所は残っていなかったと思う。かわりに、山並みはるかまで続くシラカバ林、当時、始まったカラマツ林などを見かけた。
 林業には略奪林業と育成林業があることを習ったが、まさに、豊かな森林資源を略奪的に開発していったのであろう。知床での林道設計のアルバイトは、戦後の開拓集落の跡地に宿泊したが、森林開発の最前線や計画対象地を体験した。大木と苔むした林床、明るい渓流の森林は、確かに残す価値があったと思う。
 育成林業にとって、寒冷地に適する造林木は見当たらず、期待されたカラマツ林には先枯れ病が広がっていたことを覚えている。北海道在来のトドマツやエゾマツは、当時、造林木として利用する目処は立っていないと言われていたと思う。天然林を活かした択伐施業も考えられたようで、実習では、寺崎式間伐による選木を行ったが、選定基準が判断できず、難渋したことを覚えている。また、巨大な広葉樹が、暴れ木として巻き枯らしされようとしていたのことに疑問を感じた。

山地と渓谷、湖沼
 山地は札幌近郊の手稲山、春スキーに出かけた大雪山、途中まで登った阿寒湖に近接する雌阿寒岳、などを体験した。山地には森林が残り、高標高ではハイマツ帯となっている。渓谷は定山渓が札幌近くで著名だが、行ったことはなく、北海道では渓谷らしいものを見かけた記憶がない。湖沼は摩周湖を眺め、阿寒湖とペンケトウ、パンケトウでは神秘的な湖面を体験した。

農村風景
 北海道には、内地の村の姿を見かけることが少なかった。見かけたのは、鉄道の各駅の家並みや広大な農地に点在する農家などであった。開拓地はどこにあるのか、無人の駅にどこからともなく、乗客が現れてきた。雪に覆われた季節には、そうした住民の生活の困難さを思わないわけにはいかなかった。北海道の明治の開拓者にとって、米を生産することは悲願であったということである。稲作が最初に成功したところは、増毛というところだと聞いて、出かけたことがある。冬で侘しい旅館で友人と語り明かしたが、水田を見ることはできなかった。北海道の開拓には、アメリカ人の指導を仰いだ点から、大規模経営による畑地農業や、畜産が展開したと考えられるが、私はまだ残っていた開拓時代の家屋から、開拓の厳しさを感じた。

海岸風景
 石狩湾は広大な円弧を描く砂浜が広がっており、銭箱の海水浴場があって何度か行ったことがある。夏でも寒く、海も暗く沈鬱な感じがした。海岸の内陸の丘にはハマナスがあり、季節によって花々を点在させた。さらに内陸部にはカシワの森林の帯があったそうであるが、顕著に森林が見えた記憶はない。
 エリモ岬は険しい岩が激しい太平洋の波に向き合い、その岩の間の小さな砂浜で、コンブを採取する人々を見かけた。海の豊かさと、冷たい冬の海に向かって働く人々の生活の厳しさが感じられた。
 オホーツク海に面する広大な海岸と湖沼は、列車の窓から延々と続いていた。やはりハマナスなどの原生花園に向かったことがある。晩秋の枯れた草原に寝場所を探したが、見当たらず、サケ漁の番屋に泊めてもらったことがある。夜半、漁師たちは海浜に出て、網を引き、その後は酒宴となって侘しい番屋が賑わいの場所にかわって、仲間に加えてもらった。
 北海道は開拓に先んじて、ニシン漁による漁業が展開したといえる。海岸に番屋や、ニシン御殿なども残るが、もう、ニシン漁は衰退してしまった。サケ漁が主となって漁業が持続した。

結語
 真の北海道の風景とは、何であろうか、アイヌの原生林なのか、開拓の辺境なのか、豊かな農水産物の得られる雄大な風景なのか、広々した草原にラベンダーが彩りを添える欧米の風景なのか、学生さんのレポートは、風景の真実を求めているようである。私の心象風景は、その真実に接点を持ちうるのであろうか。