日常生活の目的と行動

はじめに
 人間は目的を持って行動するが、行動と目的は逆転することがある。人は生きるために食わねばならないが、その食糧を得るために、働かなくてはならない。また、働くためには休息を取らなくてはならない。食べる目的と働く行動は連続しているが、働くことを目的とすれば、休息の行動が連結する。しかし、働くことを目的として食べる行動が逆転して連続することがあるし。休息を目的として働く行動もある。しかし、食べることと休息をとることとは連続しない。
 食べるということは直接の欲求であり、働くことは意志的行動である。休息も欲求である。欲求相互には、意志としての目的に転換しても、行動ー目的として連続することなさそうである。人間にとって考える能力が大きく、生きる上で、思考能力が大きく作用している。生きるためには思考が必要である。しかし、人間的であるところの思考能力からは考えることが目的となって生きているという逆転もありうる。思考し、世界を理解し、生きることの意味を考え続けることこそ人間的というならば、考えるために生きているのである。
 肉体的、動物的な生存と意識的な思考とは対立的に考えられ、肉体的存在が意識的存在を否定し、また、その逆に、意識的存在が肉体的存在を否定することも成り立った。目的として意識することと、肉体的な活動としての行動は、互いに相克して、その関係を成立させる矛盾となったのかもしれない。未熟な意識において行動とのバランスが成立し、子供や動物こそが、バランスが取れた状態と言えるのであろう。

知性的な生活
 野生の状態における動物は環境に適応して生存するために必要な知力を発揮するだろうが、人間は環境を改変するために知力を発揮するようになり、改変された環境のなかで野生の知力の発揮は軽減され、人工的環境の改変へと知力が向けられたのであろう。子供の未熟さは人工的環境と知力とのの平衡状態といえるのではないだろうか。その平衡状態は野生動物が自然環境に対して持つ平衡状態に近似している。成熟した大人は生活環境に対して、知力が平衡を欠いて発達する。平衡を保つ上で、環境の拡大か改変が必要となり、それに応じて活動範囲が広がるのであろう。活動範囲を広げることができなくなると、知力は閉塞する。知性を持った人間は、環境を改変して、平衡状態を確保し続ける必要があるのだろう。
 行動は環境における空間的な活動であるが、そこに、意志となる意識が優先する時、目的が明確となる。環境改変によって知性との均衡を生み出す契機としての行動に、目的を持った意識的行動が重要といえる。そこに、考えることを目的とした生活が成立する可能性がある。