石庭の由来

はじめに
 竜安寺の石庭はあまりにも著名であり、多くの本で様々に論じられている。方丈の庭として白砂の場所に、ある時庭師の手によって石が配置されて作り変えられてしまった。石の背後に隠されて刻まれた名前は庭師であろうと推測されているが、何のために記されたのかも定かではない。石を実際に組んだのは庭師たちであったことはわかるが、庭師の棟梁も推測の域を出ないようである。また、その庭師に配石を依頼した人が誰だったのか、また、その意図はなんだったのかも定かではない。そして、現在のわれわれは、この石庭を目にした時、その程よく囲われた空間にくつろぎを感じ、禅の厳しい修業の場とはつい思わない。大海の縮小された世界をイメージし、砂と石による抽象化された形の配置を楽しむ。また、修行の清掃がもたらす砂紋の模様に光の効果に浸る。生命の姿は僅かなコケと塀の向こうの樹林しかなく、空と砂を背景として、石の硬さを浮かび上がらせている。単に物質と見るなら、鉱物的な物理的景観である。

山水画
 雪舟は画家であり、禅宗の僧侶であり、作庭家でもあった。雪舟の描く山水画と庭、また、禅宗との関係には何があるのだろうか。中国庭園は四合院の住居の形式とともに、庭は中庭として建物の内部にいりこんでおり、その様々な空間に応じて、庭の主題が変わっている。水面を主題とした庭はシダレヤナギが湖岸に添えられ、水面には睡蓮が浮かんでいる。そして岩山の空間もある。その空間に面する建物には額に建物の名前の額が掲げられている。すなわち、庭は山水画に該当し、額の書は詩の一節である。詩と書、画が一体化した空間が、中国の四合院の院子の建物と庭園といえる。それは、中国の士太夫階級の教養であり、趣味人としての文人の優雅さといえるのだろう。
 雪舟が画家で、作庭家で、禅の僧侶であることは、不可分のことであったのであろう。しかし、中国庭園の石は石自体が装飾物であり、石庭は岩石の山岳を顕すもので、詩の場面ではあっても、日本の石庭の縮景による抽象化された石庭とは相違している。

石庭の岩石
 海に浮かぶ島は、地球の骨格である地殻を海面に突き出している。広大な海もさらに大きな地殻に溜まった水分でしかない。石は地中深く、隠れんばかりに埋め込んで、僅かに土中から突出させるだけで、土中深くからの岩脈の突出を感じさせる。しかし、石は岩ではない。岩が割れて石を作り出したのである。その石を岩と見せるのは、地脈の構造を観察し、再現することが必要であろう。海の激しい波によって硬い地殻が突き出した岬は、こうした地脈の風景であり、石庭ではないが、天竜寺の庭に岬と入り江の海岸風景が再現しているように見える。夢窓疎石の自然への深い洞察が感じられる。
 庭石は、山、川、海から採取され、山を作るには山石が海景には海岸の石が使われると聞く、しかし、実際に海や川、山を再現するわけではない。再現できる自然は、自然の要素を使った細部のしぜんでしかない。竜安寺の海景もただ、単なる砂浜の一端でしかないといえる。岩は砕けて、石となり、さらに小石となり、砂となり、土の粒子となって石とはいえなくなる。その岩が分解していく過程に、様々な石の姿がある。その過程に生じる石の風景の断片が、材料を選び、それらを組み合わせて再構成する景色であるのではないか。そして、なお、その自然の姿を再現することはできないのである。
 石は土に据えられて、水に浮かぶ木片のように不安定である。がっちりとした基礎に石組みして、それを土に埋めて頭を必要なだけ出してやる。そうした工事を昔の庭師は行ってきたのではなかったか。

庭に見えないもの
 北海道の襟裳岬のことですが、岬で鉄道が途切れて、バスで岬の向こうに連続しています。 そこを2回、岬を越えた超えたことがあります。
海岸に大きな波が打ち寄せ、人々が、打ち上げられた昆布を拾っている様は、厳しい生活そのものでした。海の底には昆布の密林があるのかもしれない、豊富な昆布の密林に地上の厳しい生活が対比的に思われました。しかし、後に読んだ東先生の本では昆布の密林は失われたことがわかりました。その昆布の衰退は、海に流れ込む川の上流の森林を荒廃させ、土砂が海に流れ込むようになったことがその原因だったとのことです。今は上流の森林復元に取り組んでいるとのことです。私が見た襟裳岬の風景は、貧しい海のわずかな昆布を拾う人々の姿であったようです。
 板様は、川の淵や水の状態見るだけで、どんなに魚が棲んでいるかを判断できると思いますが。夢窓疎石は岬に立って、地脈や海底や人々の暮らしまでを読み取ったと思います。それなのに、魚のいない海を作るとはどうしたことかと疑問です。これは岬の荒磯が、庭から失われたのではないでしょうか。庭は鑑賞される対象となって、池の前面は刈り込みなどが配され、平坦な地面が水面近くに接近しています。
 しかし、禅宗夢窓疎石を知らない私自身が、多くの見えないものがあります。

謎の石組み
 庭を見ても、夢窓疎石を知らない私に、理解できないことは多々あるのですが、苔寺の石組みは、果たして組まれたものか、古墳の石組みが顕れたのか、斜面が崩れた石なのか、が定かでない聞き、なんだろうかと見ていたことがあります。しかし、それが何かは分かるはずもありませんでした。分からないで、何かがあることが感じられますが、ただ崩れた石ならば、自然として見過ごすかもしれません。ともかく、自然であったにしても、それを庭の中心として顕在化させたことに、偉大な庭師の精神があるように思います。
 銀閣寺は足利義政夢窓疎石を慕って、苔寺を見本にして作ったと言われています。作庭は同朋衆に加えられた賢庭であったそうです。その賢庭の弟子か、仲間の職業集団が竜安寺の石庭を作ったと考えられるとすれば、庭師の庭と夢窓疎石の庭とがつながってきます。銀閣寺に山の斜面を堀り崩して、露岩している場所があります。何故、そうして石組みでもなく露岩させているのか、全く分からなくなります。しかし、苔寺の石組みが自然や古墳の跡とも判別が出来ないままに、庭の中心となっていることに、合致した造園と解釈もできます。しかし、やはり、謎には違いありませんでした。