合理的なものは美しいか

はじめに
 「合理的なものは美しい」とは、誰かが言ったことのように思い込んでいたが、さしたる手がかりを見出せなかった。「現実的なものは合理的である」も同様の思い込みかもしれない。そうでなければ、「現実的なものは美しい」の三段論法も成立したかもしれないのだが、・・・。こうした立論への反論は、不合理なものもまた美しさを有するものがあるということである。
 合理性を、人工物への機能の付与における目的性への合致となれば、近代のモリスによる工芸につながり、「機能と美の一致」となる。工業製品が、機能性を持ち、同時に美的であることが問題となった時、「機能的なものは美」であり、用と美の一致が可能となる。装飾性をそぎ落として、用に徹することが美を生み出す。そこで、合理的なものに、美が存在しないわけがないと言ってよいのだろうか。
 カントが区分した理性と感性では、理性によって合理性が求められ、感性によって美が求められることになる。合理性と美とは別個の問題であるとすれば、合理性と美とは並列し、不合理なものが美であり、合理的なものが醜であってもおかしくはない。近代工芸運動が求めたものは、機能と美の両方が調和して実現することを求めようとしたのであって、機能的なものは美しいとまでは言われなかったにかもしれない。

真善美
 古代ギリシャ人の究極の理念は「真・善・美」であり、カントの理性、悟性、感性によって求められるものと一致すると言ってよいのであろうか。近代科学の追及は眞を理性によって求め、現実を合理的なものと理解しようとしたとすれば、理性が重視され、真善美の古代人の調和は損なわれたのかもしれない。真実と虚偽、善と悪、美と醜は、現実において、虚偽であり、悪であり、醜であるという、理念と逆行するものが生じたとき、不合理なもの、悪は醜ではなく、美となりうるという言い方も成り立ちえるのかもしれない。現実は真実とは言えず、非現実の空想が現実化した不合理な社会で、こうした逆転が生まれているのではないか。われわれは現実を疑う必要があり、現実のすべてを眞なものとして受け入れるわけにはいかない、
 真善美の理念は、現実に存在せず、空想した理想として憧れ、求めるものであるのだろうか。理想(観念)を現実化することが可能であることは、人の行為に、社会的な共同意識にかかっていることは、フランス革命が端的に証明している。しかし、その理想とした善としての自由と平等は現実そのものとはいえない。一方、物質的世界の真実を追求する科学が実現し、合理的な技術の発展が実現している。美の追求は芸術によってなされるが、環境の知覚は、快、不快が混在している。われわれは、こうした現実を広く知り、見極めていく必要があるだろう。