里山の起源

はじめに
 里山は農山村の人々の裏山であり、農業に不足する生活資材を補完する役割を果たしていたとすれば、農業の始まる弥生時代に起源があるかもしれない。焼畑では里山自体で農業が輪作して維持される形態であるので、農業の原初的形態として縄文時代につながるものとも考えられる。藤森栄一によれば、信州は縄文時代に人口が高密であったところとし、その要因はクリなどの食料が豊富であったと指摘している。クリなどの広葉樹林は山火事などによって成立し、自然火災だけでなく、人為的な火災もこうした広葉樹林の成立に寄与したのではないかと推察している。
 山菜などの採取は今日まで行われており、縄文時代の狩猟採取を継承しているように見える。食料だけでなく、燃料から住居の資材までの里山の利用自体が、狩猟採取の域にあるともいえるのではないだろうか。

里山の始まり
 日本で最も古い里山奈良盆地大阪平野の境界をなす生駒山地ではないかと述べる人がいる。とすれば、弥生時代古墳時代里山が姿を現したのであろう。人々が農業を営むようになり、定住が始まると、定住し、農業を営む上で必要とされる山地の利用が行われる。しかし、奈良時代に飢饉となり、山に住んでいる人が、平城京にあふれ出てきたことがあったようで、山地の狩猟採取の人々も未だいいたのかもしれない。
 条里制の農地整備、班田収受の法制によって村里が出来てくると、山地を利用した里山が生じたといえるのであろうか。村人は農業を営み、山地はその補完物として利用され、里人による里山が形成されたのであろう。それは連綿と戦後の農村に連続している。

里山の変質
 しかし、すでに明治になって、農産物の商品生産とともに、薪炭材などの生産が始められ、木材生産も始められていった。生活の場であった里山が、生産の場となっていったのである。里山が開墾され、農地も広げられたが、とくに、養蚕が盛んとなると桑畑への転換が大きかった。
 戦後の食料増産は、開墾地を広げたが、養蚕の衰退、薪炭生産の衰退によって生産的利用が衰退し、また、農業を補完した堆肥の採取など生活面での利用も衰退していった。農地や草地、薪炭林は放置され、自然の林地へと変化していった。
 こうした放置林、農地の転換として拡大造林が推進され、植林地が拡大した。林地は分収林として公的な団体が集約して造林を進めたため、年限を限って個人有の権利が制限された。

地域環境としての里山
 里山は集落住民の共同利用の場として入会地である場合が多かった。イギリスでは農村共同体の共同の権利の場所としてコモンがあり、地主貴族の囲い込みに対して、農民は抵抗してきた。19世紀の後半にはコモン保護運動が盛んとなると、入会権が農民に確保されると、市民の環境利用にも開放されるものとなった。日本の場合の入会地は、明治になって土地所有の法制の施行によって、分割されて個人有地とされたり、共同所有地、部落有林、公有林などの諸形態が生まれた。個人有林が多くを占めている現状は、分割される場合が多かったことを示している。
 個人有地となり、生産的に利用されていた場合も、立ち入りを妨げる柵まで設ける所有者が少なかった点で、所有者でない住民や通行者が山地にいても、罰せられることはなく、自由であったといえる。かって、入会地で共有の山地であったことを今もって主張する人もいる。子供の遊びや散歩の場や山菜の採取くらいまでは、地域住民の共同環境となってきた。
 しかし、里山が生産的に利用されなくなり、放置されると、山道も無くなり、人々が山地に近づけなくなった。山道、特に登山道などは、市町村などがお金を出して維持している場合も出てきた。

里山利用の歴史過程
 こんな大げさな表題を掲げる必要は無いのだが、振り返って、里山の利用は時代によって変わってきている。狩猟採取の場から、農業の補完的利用の場、薪炭生産の場、農地開発、林業生産の場、地域環境の場、である。現在の里山が放置されながら、これらの歴史的に辿った利用を潜在的に包含しているといえる。