天空の風景

はじめに
 夜空の風景は地球から見た宇宙の風景である。宇宙を見る風景は望遠鏡によって開かれた。星空が星座として、月の影が満月から新月へと変化し、潮の満ち欠けと関連し、太陽が日の出から夕日へ、昼から夜へと移動し、その太陽が季節によって高さを変化させて、照度が変わって夏至から冬至へと大気の暖かさの変化に影響していることは、原始時代の人類が体験し、古代文明の時代には天文学として測定され、神の造った世界として認識されていた。
 近代に至る文明は、天空を科学的に認識して、天動説を地動説に代えて、宇宙の運行に対して、人間の視点となる地上を、固定から時間とともに移動する視点へと変えてしまった。太陽に対して地球はその周囲を自転しながら回転する一つ惑星であり、太陽系も広大な銀河系の星の集団を一つであり、宇宙の暗黒の空間には、さらに多くの銀河系の星の群があるというのである。古代の天空の風景は、移動する地球の地上から惑星系、銀河系、宇宙の広がりの空間の風景へと転換しているのである。
 その風景の主体のなる人間は、地球上の人類はそれぞれの国に分かれて生活しているが、世界の国々が国際連合に参加して、人類の運命を調節しようとして努力するようになり、情報は世界の国々をつないでいる。しかし、個人として人類の意識と国民の意識は矛盾している。国際的な国々の対立、国内の社会的格差が、平等で協調する人類のイメージを後退させることになる。

風景の主体となる人類の認識
 宇宙の一つの太陽系の惑星である地球は類希な生命に満ちており、そこで生活し、環境を認識することのできる人間を生み出したのである。その過程は生命の進化として認識され、文明社会の進展は世界の歴史として認識される。これらの認識が人類を意識させ、個人は人類の一員であるという共通認識が生まれるのである。

風景論の挫折
 風景とは環境の眺めであり、ある視点と意識によって外界となる環境を知覚することによって得られる眺めである。風景を求める意識は、個人の自覚と科学の探求を呼び覚ました近代になって進展したものといえる。それはロマン主義の熱情となって進展した。神話の幻想lから脱して現実の真実に向かう個人の探求の意識がそれである。現実の奥に潜む真実には理想があり、その探求によって理想の世界を見出すことができると考えられた。理想の世界は真実であることによって、個人を越えた人類共通のものとなりうるものでもある。
 環境に風景の理想を生み出す真実を見出そうとすることが、逆にその風景を破壊する社会の現実にぶつかることになる。