風致と風景の概念

 「風致」を辞書で検索すれば「自然の風景などが持つ趣き」「味わい」「風趣」「雅趣」などがでとくる。英語では「scenic beauty」とある。 英語では趣きをbeautyとし、自然の風景などのをscenicに該当させている。以前に書いた論文でsceneとsceneryを舞台におけるscene場面とscenerioの関係として解釈したことがある。「古代ギリシャにおいて演劇が盛んとなり、各都市には劇場が作られ、市民生活は演劇のドラマによって鼓舞され、人生は劇的であることが自覚された」と想像した。場面は生活の行動の場であり、その場面の連続によってドラマが生じる。生活や人生は各自が描くドラマであり、各自はその主人公となる。個々の行動にとって場面がどのように即応しているのか、演劇の場面は舞台における背景を変えることによって表現される。近世になってのことであるが、風景画も舞台の背景に使われることがあり、その空間表現を精緻にすることも風景画の展開に役立ったことが示唆されている。パノラマ館の出現は観客を中心にした風景の装置を生み出したが、その風景は視線の向ける方向にある個々の風景の集合といえるものであった。すなわち、場面sceneがシナリオで連続するように、場面sceneの集合が風景sceneryを生み出しているのだと解釈した。以上から解釈するならば、風致は「場面に生じる趣」ということになる。場面は個々の人が主体となって行動する場所であり、風景とそれを眺める主体の空間的関係であると考えた。
 風景、風致の「風」は「趣き」が該当するのであろうか、大気の運動としての風が心理的な状態をあらわすのであろうか。松尾芭蕉は風を「風雅」など多用しているが、それが芭蕉の「さび」「わび」などの境地を示すとすれば、風化と関係するのかもしれない。風の中国古代の使われ方が孔子詩経に現れており、風とは歌のタイプを区分して表し、今日の様式に該当する。現在も・・風は様式をあらわしている。風致は日本的な「趣き」であり、西洋的な「美」と違っていることは確かである。場の様子は雰囲気として感じられるが、これには英語がatomosphirである点で大気として日本語と一致しており、大気の運動である「風」と結合している。風致は場面の雰囲気、落ち着いた趣きと美的な快さなどを総合した感じであり、日本人ならではの独自の感覚によってとらえられた意識であるといえるだろう。
 場面のもとで成立する風景の視覚を中心とした知覚はパノラマの眺望において景観を対象としている。逆に風景は景観を対象とする知覚ということができる。景観をlandscapeの訳語として生み出す一方で、風景という言葉もlandscapeとした。語源的にはオランダ語の領地の境域を示す言葉から、それを描いた風景画にlandscape paintingとして使われ、イギリスの風景画の導入を通じて、landscapeを風景画の対象とする風景の知覚であり、対象とする景観でもあるという意味が付されていったことが推察される。それゆえ、landscapeは景観でもあり、風景でもあるといっても良いのであろう。一方、sceneryが風景と訳され、景観とは訳されない点で、landscapeとは相違があるのであろう。日本人にはlandscapeの景観にはなじみがなかったが、近代的風景を受け入れるなかで、landscapeを風景として受け入れたのであろう。それが、志賀重昂の「日本風景論」に示されたといえる。当時まだ「景観」の言葉は普及していなかったはずである。
 景観がlandscapeの語源となる土地の境域を示す意味を付加して、ドイツで出発した地理学ではLandschaftが使われているとして、井手先生は景観を「景域」という言葉に変更することを主張した。確かに地理学の用語として土地の状態をあらわす意味で明確となるであろう。しかし、それによって景観という言葉も不要となってくる。景観が土地landの広がりに見られる状態であるとして、風景は人が立っている場所の一点からの場面による眺めである。人の立つ場面としての場所は土地の広がりの中に位置する1地点である。場所の英語placeは広場のplaceと一致することは興味深いことである。人が市民であり、都市に依拠する住民であるなら広場が市民の結集する空間であり、広場での行動は市民としての立場を明示するものであるはずだ。広場は市民としての行動の場所となっても不思議ではないだろう。
 イギリスの都市計画制度の中でamenityが出てくる。amenityは辞書検索で「環境の快適性、都市計画で建物・風景などの快適性」と出ている。風致が場面において生まれるのに対して、amenityは場所の環境に生まれるものではないかと考えている。 場所と場面との関係は場所は土地の一部であるのに対して、場面は行動の位置であり、行動に伴う場所で行動とその場の環境の知覚として風致が成立する。一方、場所は固有のamenityがあり、その場所に来た人は誰でもがamenityを意識することができる。意識は主観的なものであるから、誰もが同一の意識することは基本的にはありえないが、コモンセンスを前提として場所の特性を共通意識としていると考えられ、意識が共通化できる文化的な水準の高さを表している。風致は個性的な知覚の相違となるが、同時に場面における知覚と認知の向上の深化の可能性の大きさを表すといえる。このような風致は英語においてはbeautyが該当するが、beautyは場所の状態に留まらない一般的な対象に対するものであり、これに対して、風致の美意識の内容は場所において感じられる全く日本文化に限定された感覚であると考えられる。
 以上をまとめると場面における風致、場面が生じる場所と場所の特性としてのamenity、場所の広がりとしての土地、土地の状態、特性としてのlandscape、landscapeを対象として場面から知覚される風景、風景における場面と場面に成立する風致との重なりと循環的な概念構造が成立することになる。森林風致は場所・環境としての森林に出かけて場面となった時に生じる知覚であるといううことができる。場面が森林に限定されているのは林内であるのだから、森林風致は林内風致に限定されるといえる。林外の眺望のもとでは森林は風景の一要素として知覚され、風景を構成する主要な要素が森林であるときに森林風景が成立するといえる。