風景の模型(9)物質世界の抽象化

はじめに
 昨日は終日、強風が吹き荒れ、風の音はいつまでも止まなかった。今朝は曇りの中で微風は湿り気を帯びて涼しく、大気の静けさに鳥のさえずりが聞こえている。
 こうして体感している世界は自然環境であるが、感じる人間の感覚でもある。しかし、その人間が存在しなくても、自然環境は存在しており、その場合は人間を主体とする環境は消失し、物質世界の存在があるだけである。主体の存在する環境は、主観を通して認識され、その主体の活動によって改変され、自然そのものの環境は消失する。人間の存在しない、または、自然を改変してしまう文明人の存在しない、未開な世界で自然の客観性を体感することができるのだろうが、その途端にその体感は主観的に変質している。自然の言葉は人間が関与しないことを意味するが、関与しないで知覚することは困難なことである。
 自然科学は、自然を物質的世界に対象化して、物質存在を構成する材料とそこに働く法則を解明しようとする。人類あるいは科学者の長い努力とその蓄積が、物質存在の姿を明らかにし、その知識から客観性としての物質世界を認識し、対置的に主体的視点や人間的世界を主観性として相対化できる。人間自身も物質的存在として科学的対象とされ、客観化してとらえられる。
 主観性と客観性は対極的な立場であるが、この対極を人間と自然の交流関係としてとらえる方法が弁証法であり、交流関係の実体でもあるという認識が、ヘーゲルからマルクスへと展開し、古代の弁証法とも関連付けられた。しかし、弁証法は、私にとってだけかも知れないが、科学ではなく、自然と交流し、自然を経験する方法の一つである。自分という主体の立場と対象としての自然は、実際の感覚とその経験によって統合されている。

自然科学による物質世界
 存在しているという実体があるから、「存在とは」の論議を学ぼうとは思わない。現に生活しているから、「観念論」の世界に近づこうとは思わない。科学を信奉してその知識を尊重するが、それは行動の判断そのものではなく、行動の条件を認識するだけである。自然科学の進展が、ニュートン力学ダーウィンの進化論・・・によって世界観を転換させたと言われる。しかし、存在を変化させたのではなく、人間の蒙昧な認識を改めただけなのである。
 物質世界の理解に対する直感と洞察は、はるかな原始時代や古代からなされたに違いないが、多くの洞察が実際の生活に役立てられなければ、無視され、消え去ったであろう。また、その洞察が間違っていても、なんらかの社会の有用性によって生き残ったものもあるだろう。こうした歴史的、経験的な習慣や技術の試行錯誤が洞察と蓄積された知識に根拠を与え、論理的な説明も加えられるようになっていったといえるだろう。
 近代科学は偶然の注意を観察とし、ひらめきの洞察を論理的な推測とし、経験的な有用性を、実験と証明によって普遍的で確実な物質世界の理解を進展させてきた。