日常生活批判と森林のゴミ問題

はじめに
 日常生活は自分自身の個人的生活ということであるが、日常として普遍的に繰り返されていると感じられるのは、個人の状況自体が社会的、集団的な状況にあるからであり、個人の状況は社会的な状況に左右されているからである。個人生活の基盤に社会構造があり、社会構造が個人の生活状況を生み出している。そこに、大衆的、集団的な状況が日常生活を支配し、最大多数の満足を生み出しているのかもしれない。
 こうした日常生活を主体的に創造し、個人が社会を形成する民主主義の理念で、社会の変革にまで到達しうることは、現状の批判が必要である。しかし、大衆の満足こそ民主主義の目的であるとすれば、民主主義でなくても、満足があればそれでよいということになる。大衆社会は物質的には大量消費社会であり、社会的には資本主義経済における大量生産を基盤としている。また、その需給関係を大量輸送網と情報社会の進展が成立させ、促進している。こうした高度経済社会は合理的であるが、個人の自由はこの社会状況に支配され、画一的となる。個人が満足する限り、この状況が日常生活として安泰であるだろう。
 日常生活はテレビ、新聞のニュースから始まる。様々な事件が生じている。誰もが、その事件を知っている。新たな製品が宣伝されている。誰もがそれを知って買うことができる。新聞を買えない人が図書館に集まって読んでいる。大規模店が各所に配置され、多くの人々が集まっている。暮らしを支える仕事と収入、住居が確保されると、誰にも変わらない生活が行われるようであり、そうした社会の一員であることを感じて日々を送るのである。
 30年以上、新聞の切り抜きを行い、地域、地方、国、世界のレベルに整理し、様々なジャンルに区分して置いたが、最近ほとんど処分した。新聞記事を整理する限り、日常の事件はそんなに錯綜したものではなく、それを整理しないで受け入れる個人が日々の事件に流され、錯綜し、時代の変化と社会構造の変動を見失うだけなのではないだろうか。長い時間の経過とともに、断片的な新聞記事をつなぎ合わせると、事件の事情から背景となる社会状況との関連が見えてくる。
 大衆社会において、こうして日常的な時代、社会の認識が、常識的になされるのであろう。常識的でないのは個々の自由である。個々の自由な認識は大衆的ではなく、現実の判断として受け入れられるものではない。しかし、そうすると新聞記事が常識を作り出し、社会を認識させているということになる。記事が記者の主観であり、編集に会社の思惑が左右することがないとは言えないという疑問も生じるだろう。新聞記事に限らず、日常の状況を常識として受け入れ、大衆的に日常生活を成立させているのだろう。
 その常識と社会状況に、満足し、支配されることによって、日常生活が維持されるといえる。日常生活は個人にとって、主体的であることの反対物となり、受動的態度によって成立するものかもしれない。それ故に、批判的であることによって主体性を回復すべきということであろうか。

ゴミ社会
 大量消費社会が、自然還元できないゴミを大量に発生させ、処理を必然的に生じさせている要因であろうが、その処理の過程に日常生活における対処としてゴミ収集への協力が不可欠となる。しかし、この大量消費の自由とその処分の責任との結合は大規模処理施設によって維持され、自由と責任の矛盾は解決されてはいない。自由のもとでの無責任さ、また、受動的な態度は、ゴミの散乱をもたらし、それを放置する状況を生じさせることになった。行政的な取締り、ゴミの拾い集めのボランティア活動が必要となった。これは、ゴミ社会への批判的な行動であるが、対症療法的な対処であり、個人の非常識への道義的な批判である。

森林の美化活動
 ゴミ問題の象徴となる大規模ゴミ処理施設をどこに作るかの議論があった。そこで、居住地の近辺が避けられるとして、作る場所は河川周辺か、山林か、農地かということになる。山地の森林は豊富であるが、急峻な地形による災害の危険と運搬距離の増大で場所として不適であるということになる。農地は貴重であるが、農業衰退で放棄地もあることから、候補地として有力視されてくる。河川周辺も水害への対処があれば有力な候補地であり、水田となっている場所が多い点で、農地と複合し、河川周辺の農地が、人家も少ない点で、最終的な候補地に残ったといえる。平地の残存森林が候補地となった時、貴重な自然保護する森林で、その自然を利用することもできる場所として、不適とされた。
 大規模なゴミ処理場を目立たなくするために、周囲に森林が残っていることは有効であるが、その森林を残すために候補地としなかったことは卓見であった。森林は生活環境を良好に保つ要素としてもっと尊重されても良いのに、これまであまりにも無視されてきた。緑化のための植栽と植栽した樹木の生育には、長い時間が必要となる。今、残存した森林にはこうした森林の持続の上で大きな価値がある。
 しかし、この森林へのゴミの散乱や投棄を行う人がいる。禁止がなされても、静かな山林に隠れてまで行う。山林に限らず、ゴミの投げ捨ては、道路や公園などでもその利用者によって行われるが、山林への投げ捨ては意図的であり、悪質である。しかし、これも、森林が単なる空き地であり、ゴミと同じような藪でしかないという評価によるものなのかもしれない。森林は美しいものであり、ゴミを捨てることは美しい森を損なうことになる。落ちているゴミを拾うようになったのは、西表島が国立公園になろうとした時期に、訪れた時からである。ヒルがとんでもなく多い森であったが、森を損なうことは許されない自然が残っていた。
 森林の美化がゴミ拾いかと言えば、大いなる疑問である。美しい森林は、ほんの小さなゴミでも大切にされていないことが気になって、損なわれると感じる。ゴミを除くことで美しい森に戻すだけなのでありるが、その戻す行為が美しい森を評価することにもなるからでろうか。しかし、森林の美化は美しい森を一層、美しくすることではないのだろうか。
 美しい森を評価し、育てるためには、主体的行動が必要であろう。先日のゴミ収集の日に、散歩道の森林のゴミ集めを行った。毎日歩くのに気分を悪くしていたからである。個人ボランティアが、またゴミを捨てる人への解決の道とは言えないだろうが、受動的な日常生活では解決は見出せない。まず、やってみて次の解決を考えて見たい。