田園環境工学の幻想

はじめに
 大学と社会の関係において、社会の必要を対象にした知を開く学問の追求が大学の役割であることは確かであろう。特に地方大学は地域社会と密着して展開する上で、地域社会の必要に根ざすことが必要である。農学部においては従来、地域の農畜林業と関係して展開が図られてきた実学が重視されてきた。こうした点で第一次産業を基盤として地方における地方大学の要となりうる可能性があった。しかし、学問は科学として次第に分化して展開してきた。一方、教育面では学問追求の初学者である学生に出発点がある上で、学問追求の目的を再認識しながら、そうして展開してきた科学的知を総合化することが必要であった。大学が研究者の集団として科学の追及か、学生のために総合的な学問の府たるかは、これまで分裂の危機をはらみながら、両立させる必要でつながってきたと言える。
 戦後発足した農学部は、当初、農学と林学だけであった。やがて、農学と林学の中に農芸化学科を増設し、農学から畜産学科を増設して園芸農学の2学科となり、さらに、林学は森林工学を増設して林学の2学科となって全体で5学科となった。私は、森林工学科が増設され、最初の卒業生が送り出され年に教員として赴任することができた。林学からの増設として林学は森林経理、造林、森林化学(木材)が残り、森林工学に砂防、治山、森林土木、農業土木の講座で編成された。農業土木は園芸農学から移行し、森林土木は造園を含むものであった。林学、森林工学は相互に不完全となり、連携して成立していた。補完的に講座の新設があり、分化して展開する増設期であり、農学部の組織の充実を目指した時期といえる。
 しかし、農学部の組織的拡大の時期から次第に地域の産業界との連携が希薄になりつつあった。また、卒業生の増大は地域、専門の範囲を超えての就職先の範囲の拡大であった。しかし、若年層の人口減少とともに、大学進学者減少が問題となり、大学の組織改変の要請が問題となってきた。教養部の廃止と学部内の大講座制への改変が同時的に進行した。農学部では5学科が3学科となり、学科が講座と重なるものとなった。林学と森林工学は合体して森林科学となった。その後、教養部の教員を受け入れて再編された。農学部は食料生産、応用生命の2学科とともに3学科として編成された。
 従来の農畜林業との結合は一層、希薄となり、農学部は食料・食品と森林・環境を対象にした展開を目指すものとなった。これは、生産から生活への主眼の転換と言えた。

田園環境工学の構想
 大講座制への転換は実質的には、ほとんど進まなかった。教員が研究者として自立できず、従来の小講座制の専門的つながりを脱却できなかったからである。そして、小講座の教員グループが学科の事情で縮小、拡大、消失などの浮沈が生じていった。新たな目標を生むことも出来ず、旧態依然とした研究室(小講座)体制を維持しながら、旧態の教育体制を混乱させる状況だったといえる。森林科学科といっても、混沌として目標が百家争鳴の集団となっていったといえるのではないだろうか。
 森林科学は林学と森林工学の単なる並列であり、新たな生活に主眼を置く森林・環境を対象にした展開が生み出せない閉塞状態を脱出する努力も誰も行おうとしなかったのではないか。2学科に該当する学生数に対処して選択的なコースの提示を行ってきたが、その実体は希薄か、旧態のものであり、教員の科学的専門の並列となって、学問の一貫性による総合的展開は望むべくも無かった。
 林学に依拠した森林コースはジャビー(技術士補の認定)を目指して教育体制を整備することを宣言したが、途中で挫折する一方、森林工学に依拠した環境コースはそれぞれの専門分野の集合でしかなかった。食料・食品を目指した2学科は、目標に向かった展開を遂げつつあるのに対して、森林・環境を目指す森林科学は閉塞して停滞している。
 森林と環境に関連して多くの教員がそれぞれの専門分野と研究課題を追求している。教育は総合的な知識を学問的追及のもとに習得するものであるとすれば、こうした教員を組織づけて学生の前に提示していく必要があり、また、社会的要請に断片的にでは大学の知的追及から総合化して応えることも必要とされている。森林コースが林業生産を中心軸に置いた体制をとるならば、環境コースは生活環境、森林から自然環境の環境を軸とした体制をとる必要がある。

田園環境工学の挫折