庭園鑑賞の方法

はじめに
 名園といわれる庭園を鑑賞する。名園を鑑賞するのに、鑑賞者を観察することになった。修学旅行生に観光客、外国からの観光客が目立った。観光シーズンなのか、名園はどこも混雑している。金閣寺銀閣寺は庭園の鑑賞は無理なのだろう。ガイドの解説の声と鑑賞に来た人々の声が飛び交っている。こうした混雑を透かして見えてくる庭園は何だろうか。
 庭園は所有する人のものであり、また、その庭園を造った人のものであることはまちがいない。外部から突然やってきた鑑賞者は所有者や作庭家に感情移入して鑑賞するほかは無い。名園の多くが禅宗寺院の庭である。鎌倉時代以降の武家の時代に即応している。寺院は僧侶の生活の場であり、職業的に求道的である。また、環境は俗世から遊離した中国文化や自然環境が求められている。当初の寺院の創設は将軍や武将の後ろ盾で成立したのであろう。求道的な中に、世情の混乱への克服によって民衆の安定した生活への祈願が含まれたのであろう。このような求道的な職業と生活とは矛盾した関係であろうが、この矛盾を融合させるものが文化的、自然的な環境であったのではないだろうか。われわれ庭園鑑賞に向かうものは、庭園に生じる矛盾と矛盾を融合する環境との関係が鑑賞の眼目となり、所有者や作庭家との共感に到達できるのではないだろうか。

天龍寺
 夢窓国師による庭園を見てきた。案内によれば、御嵯峨上皇の亀山殿の跡に国師による天龍寺の創建がなされたということである。庭園は曹源池が中心にあり、東から遣水が流れこみ、夜泊石があるなど、寝殿造りの庭園の要素が残り、国師禅宗的な要素は、池中の三尊石と山腹の枯山水の滝であろうか。しかし、西側の山腹の地脈が池中に沈む岬となり、呼応する前面の岬が竜の爪となって池中に浴して、滝に頭をもたげて、天に昇ろうとする時、静かな水面は天の嵐となって、巻き上がろうとしてのは、私の幻視であろうか。岬の先端の岩石は打ち寄せる波に抗する地殻であり、静かな入り江と交互に池の岸辺を形づくっている。こうした造形の背後には禅僧の自然界での厳しい修行の現れであろうか。

 寝殿造りの宮廷生活、禅の求道、自然の描写がこの庭園で融合していると見てよいのであろうか。方丈の面する白砂の庭とは反対側にあることは、純粋に修行や儀式の庭ではないことを示しているのではないか。天龍寺の創建は御醍醐天皇の菩提を弔うことを意味したとのことである。天皇のゆかりの地でもあったということで、天に向かった天皇の活躍した吉野に向かう山を借景ともして、天に向かう竜を天皇の姿に重ね合わせたのであろうか。庭園にそうした政治的な遠望を重ねるのはまちがいであろうか。私には借景であるかもわからないが、前面の山腹の樹木が繁茂して、壁のようになったのを、幹の途中を切って、樹高を低める時に出くわしたことがある。今は無き昔なじみの庭師がそこにいて、その庭師が進言して伐採していることを聞いたことがある。何が真実か、自然の変化が次第に隠していったのだ。また、八回の大火で建物の多くが明治期の再建だそうである。

竜安寺
 石庭を作ったのは誰であろうか。ある時期まで方丈前の庭は白砂だけであり、葬儀などの儀式に使われていたということである。何かの契機に、そこに15個の石が配置された。応仁の乱に建物は喪失し、石が配されたのは、その前後のいずれかの時期であったのだろう。江戸時代にも火災で方丈が焼失しているということで、石庭を囲む油塀も石の配置された当初の姿とは相違していたであろう。

 石庭は求道の庭であろうか。白砂を海として石を島々と見ることもできるだろう。それは遠景の瀬戸内海かもしれない。しかし、池中から突き出たような石とともに、地に突き刺さって、浮き立つような石、ただ、平面に置かれただけのような石もある。島ではなく、波間に浮かぶもの、波間から飛び立つものを表現しているのかもしれない。また、15の石は七五三の数字あわせかもしれない。何ゆえの配置された石かが分からないために、禅の求道的な精神を示すようにも解釈される。平面における事物の間との関係、石庭と背景の油塀との関係、また、その外部の樹林もまた、意図的なのか、偶然のなせるものなのかもわからない。白砂の空白と配石の意味の不明さは、同列のものであろうか。
 方丈を飾る襖絵の豪華さは、求道的な禅とは対立し、裏庭となる書院の庭の潤いとも対立する。しかし、石がもたらす陰影とその陰影がもたらす潤いに育まれた苔の緑が、求道的な庭を現実化させ、文化と生活と求道を是なるものと肯定するようである。

大徳寺大仙院
 大仙院の眼目の庭は書院の庭である。方丈の庭は白砂敷きに円錐の盛り砂の山が2つ添えられ、二重の生垣がその敷地を囲っている。これに対して書院の庭は山から流れ出した川が大海に放出し、船や亀までがその川を上下するという具象的な物語の石組みと白砂である。また、代々の和尚の肖像、書き残した書などが残り、書院での生活ぶりを表している。生活と修行、文化とは一体化しているようである。

詩仙堂
 詩仙堂禅宗の僧侶の庭ではなく、武士であり、文化人であった石川丈山の寓居の庭である。東山山麓に立地し、水と森の自然環境に恵まれた環境に、中国の詩人世界を作り、現実社会から一歩退いて、趣味の生活を実現している。自然と文化、生活が一体とした庭園を形成し、将軍義政の銀閣寺の小規模な再現といえるのではないだろうか。茶の湯の一層の進展は、その草庵の趣に根拠を与えているようである。

南禅寺金地院
 安土桃山時代から徳川時代へと移行する中で、小堀遠州とその建設事業集団は、多くの事業を行い、作庭において、時代を象徴する様式を生み出したといえる。庭園はそうした様式から明確な意味を主張するものとなり、政治的な立場を表現するものとなった。歴史を通観する強固な形態として鶴亀の左右均衡の大胆な構成を金地院方丈の庭は示している。中央の座禅石は求道とともに、天下の安定をもたらした将軍への崇拝を表現している。背景の東山の森林は手前の刈り込みが縮景となって、はるか連山の奥行きとなり、庭園の外部が遠方へと広げられている。その彼方に日光東照宮があるのであろうか。
 一方、この庭園は生活感は希薄に感じるがどうであろうか。

無隣庵
 明治の半ば、山縣有朋が別荘として造営し、小川治兵衛の作庭によるものである。設計は有朋自身によるものとのことであり、施主の意向によるものといえる。数奇屋の建物と茶室、そして洋館まであり、明治の和洋混交の生活を示している。和魂洋才で開かれた明治の世情であり、琵琶湖からの疎水が新たな自然を生み出し、京都の伝統的な庭師の小川治兵衛を近代的な風景に導いたものであろう。