北九州若松の風景

はじめに
 北九州市若松は母の実家のある町である。5つの都市が合併して北九州市若松区となった。洞海湾に面して対岸は戸畑区となっている。小さな頃から母の実家を訪ねて若松を訪れると、戸畑駅を降りて、洞海湾渡し船でわたって若松に到着した。波止場に降りた通りが若松駅まで通じており、長い商店街が形成されていた。この商店街の入口あたりにある古い魚屋が母の実家である。今も伯母がいて、その跡継ぎの夫婦と息子が魚屋を営んでいる。
 洞海湾をまたぐ若戸大橋ができる頃から、長い商店街の衰退がはじまった。戦後はまだ盛んであった石炭の積み出しと船会社の事務所が減少し、経済が衰退していったためである。海岸地帯が埋め立てられ、そこに新たな工業地域が形成しても、人口は減少し、商店街の人通りは疎らとなり、商店の空洞化が進んだ。かって、祖父が若松の機関庫で働いており、父もこの町で育ったのであるが、その父も2年前になくなった。祖父のいた頃は、折尾から若松までの鉄道は石炭を運んであり、鉄道だけで1400人の人々が働いていたそうである。
波止場の渡し船

魚屋からの風景
 訪ねてくるたびに、街中を歩き回り、小さな頃の賑わいが、失われていくことを走馬灯のように思い浮かべる。しかし、魚屋は賑わいが失われた中、ぽつんと昔の姿で、主人が店先に客を待っているが、威勢の良い掛け声はなくなってしまった。せりの行われた魚市場は、北九州で統合されて、小倉の魚市場まで毎朝、行かなくてはならない。若松の魚市場のあった港には、数隻の漁船が泊まり、早朝に漁に出て寄稿した漁船が魚網の手入れをしている。洞海湾を出て響灘で漁が行われ、小倉の魚市場に魚を下ろして戻ってくる。近代の産業都市として発展していった若松で、祖父は屋台を引いて魚の行商をはじめ、魚屋を開業したそうである。洞海湾が埋め立てられて港湾の整備が進み、人口が増大する。そこに、漁村が変貌すると共に、魚を供給する漁業も盛んとなったのであろう。魚屋は漁師から魚を仕入れ、住民に魚を提供して発展した。漁村から近代都市に結合する媒介者の一人といえるのだろう。今は停滞した近代都市とともに、細々と魚屋の営みが続けられる。
朝は9時から営業、しかし、4時には魚市場へ
豊富な井戸水でまな板はいつも水で洗われている。

寺社からの風景
 街の中にはお寺が多く、神社は恵比寿神社がある。漁村の頃から続いた寺社であるのだろう。店や住居が撤去した跡は空き地となり、駐車場などが作られ、空洞化が実感される中で、お寺や神社の存在感が増している。恵比寿神社の出口から一直線の街路は洞海湾を覗かせており、若戸大橋の下の神社の樹林も街の自然の憩いの場となって人が集まっている。
 様々な宗派の仏教の寺は、近代以前のものではあるが、あまり、古いものではなさそうである。しかし、それぞれ、住民生活に根ざす活気が見られる。市街の衰退が、お寺に活気あるように見せているだけなのか、若者の少ない街に年配者の生活が洗い出されてみえるためなのであろうか。市街のあちこちの家先に鉢植えの草花が置かれているのも、そうした現れなのか。
恵比寿神社、寄進による石造物が多い。

高塔山のたいまつ行列
 高塔山は若松のシンボルで河童が集まる伝説がある。洞海湾と市街を見下ろし、響灘までを遠望する高台であり、私の小さな頃まで、ケーブルカーが山上まで通じていた。八幡、戸畑にもこのような街のシンボルの山があるので、洞海湾の周囲を囲む三山があり、景観のポイントとなっている。しかし、若松の市街からは高塔山は市街の隙間にちらほら見えるだけである。かえって八幡、戸畑の山が洞海湾の対岸に際立っている。車道が通じて高塔山の山頂の展望台には行きやすいが、以前のように歩いて上る人はほとんどいなくなったのであろう。
 先日に若松に行った時、たいまつ行列があるというので、見に行った。竹筒の先に火をつけた松明をもった人々が、恵比寿神社近くの街路をえんえんと行進しているの見かけて、近寄っていった。小学生が多く、地区の自治会単位にまとまって歩いていて、家族で参加している人、若い人も混じっている。どんどん進んで高塔山の山頂にまで向かうそうである。一時間も見ていると、行列は高塔山の山頂に近づいているらしく、たいまつの列が蛇行して山頂近くに見られた。後から何のための行列なのかを聞いてみると、河童封じのためだという。長い行列に、住民の力強さが感じられた。

花火に集まる人々
 若松港まつりのメーンイベントが花火大会である。伯母の誘いで花火大会を見に、若松へやってきた。普段は寂しい若松の街にどこにいたのかという大勢の人が、夕方の火が高い内から集まってき始め、暗くなると、各所に敷物がひかれて、洞海湾の岸は人々で埋め尽くされてしまった。洞海湾を一艘のの船が近づき、やがて、花火が打ち上げられていった。新たに隆盛した企業の寄付によるもので、もう商店街は寄付を行うことを止めているということである。そんな現実を忘れて、一瞬の花火に人々は酔いしれていた。
 若戸大橋からナイアガラの花火が雪崩落ち、花火が終焉を迎えると、波止場に渡し船を待つ行列ができ、戸畑へと人々は帰路をとるようであった。多くの人並みは、戸畑からの人々が大勢いたのだった。花火は人を集めるようである。海岸に面した高層マンションから、花火を眺める人々がいたのであろう。客人を招いたマンションの一戸から魚屋へのし出しの注文もあったそうである。あちこちの注文がこのときばかりは多かったそうで、一日、魚の調理が続いたようである。しかし、この賑わいも一年間に一回だけである。
 

都市景観整備事業
 花火を見物した海岸の通りは、若松区の都市景観整備事業が行われ、まばらとなった古い建物が保存されている。整備事業の範囲はこの海岸の通りと若戸大橋に囲まれた区域である。古い海岸とやや新しい若戸大橋に囲まれた通りが中心に整備されている。この区域の真ん中を貫いて商店街がある。しかし、その商店街の人通りは少なく、景観整備事業の対象にはなっていないようである。
 景観の変遷を考えると、洞海湾を中心にして、近代の急激な産業発展が、農漁村の地域を工業都市に変貌させ、また、石炭産業の消長とともに、市街が衰退した。衰退による空洞化とともに、近代的な営造物がまばらに残り、さらに、近代以前の地域社会に依拠した社寺が際立ってきた。しかし、その自然環境は大きく改変されて、回復することはない。空洞化した市街に睥睨するような高層マンションが入り込んできた。住民生活はこの急激な変化の中に、古き時代と現代の変化に適合しているのであろう。
 都市景観整備事業は、近代都市の環境を文化遺産として受け継ぐものといえるのかもしれないが、住民生活の歴史性とは遊離したところが多いようである。しかし、多くの人々がこの街に集まり、賑わいと厳しい労働による生活を再現することが出来ないことも確かである。昔の思い出の場所、街角は、跡形が残るか、その跡形もないほどに変貌し、思い出も薄らいでいくのであろうか。