廃園の風景

はじめに
 廃園について、もう筆者も題名を忘れたが、小説か随筆を読んだことを思い出す。両親が無くなり、住人のいなくなった家に帰郷して、庭園の手入れを始める男の話である。筆者自身の体験のようであったが、手入れした庭園が、筆者を束縛して、自由が奪われたように感じて、その家から庭を見捨てて出て行くことになったという話である。
 植物は土に根を生やして移動することは出来ない。定住し、土地とともに生きることは、植物とともに土に根を生やすことなのになる。近代社会は馴染んだ土地から人々を都市に集中させている。都市の定住は仕事のための仮住まいに過ぎず、仕事によってどこにでも移住する。放浪者となり、知らぬ土地の異邦人となる。筆者には、故郷は安住の地ではなく、自由を束縛する牢獄なのであろうか。
 長年、手入れされ続けた庭も、棲む人がいなくなれば、忽ちのうちに伸びた樹で塞がれ、芝生は雑草の藪となってしまう。草花はその雑草に埋もれて衰退してしまう。廃園は住宅を廃屋に変えて、樹林の中で、人の住んだ跡も消失していく。街中の廃園は、垣根が取り払われ、敷地が造成されて、新たな住宅が建設される。廃園は、新たな庭園へと更新される。もう、以前、どんな庭園があったかも忘れられることだろう。

庭園から廃園へ
 庭園は庭園を作り、そこで、生活する人の人生とともに生起し、消滅するものであろう。廃園となった場所に住んだ人は、これまで住んでいた人の環境に左右され、それを受け継ぐか、破壊して新たなものを作るかの選択が迫られる。育った樹木を切るのは忍びなくて、残すことは、前の人への共感である。庭を通じて、環境への共感が受け継がれ、新たな造園の作用が加わって、庭が成長していくのであろう。新たな庭への理想が大きくて、以前の庭には我慢できなくなる時、廃園が消滅する。

 
廃園の再生
 廃園の再生の物語は、秘密の花園の感激的な童話であることは多くのひとが知っていることである。過去の閉ざされた追憶が廃園の再生につれて新たな展開を見せる。しかし、故郷を後にした人が、退職して故郷に戻り、廃園を再生させる時、残された人生の安住の地が故郷であったのかと疑念が生じるという最初の話は、何を意味するのであろうか。
 庭園が廃園となり、その廃園を再生しようとするとき、廃園は追憶とともに、以前の姿が浮かび上がる。その追憶は両親の世代とともに完結しているので、新たな庭を作り、その庭に追憶の部分を散りばめなくてはならない。過去の断絶は一見、自由ではあるが、もはや、当てのない自由を求める年代を過ぎ去っていることに気付くだろう。廃園をさらに放棄して自由を求めて旅立った著者に、安住の時は来ないことを、廃園にとらわれる不安感とともに暗示しているのではないだろうか。