散歩

 主観と客観の関係は近代哲学の大きな課題であったのではないだろうか?日々の散歩から考えて見た。何の目的も無く、犬のための犬に導かれるままの散歩、進むにつれて様々な事物が生起してくる。ただ、それらの外界の出来事を受け入れて、応答するだけである。これらの出来事の生起する外界は客観的である。しかし、それを感じ、応答していることは主観的な認識であるが、客観的外界に対する受動的態度である。しかし、ある途中から、疲れた、おなかが減った、何か用事を思い出したなど散歩を離れた散歩者の事情が生じた時、散歩を止めて次の行動のために足先を転じる。散歩の外界の客観の思考を離れた、頭脳のなかの主観の思考に閉じこもる。しかし、これまで散歩していた外界が散在しない訳ではなく、進行するための注意に必要である。こうした客観と主観は散歩の思考のなかに交互に現れる。外界から生じる主観の連想が、外界の客観と断続して生起す場合もある。
 ルソーの「孤独な散歩者の夢想」が近代的個人の自覚の原典ともなり、ゲーテに多大な影響を与えた本であることをドイツ文学研究者の大澤先生より教えて頂いた。迫害を怖れ、閉じこもっていたルソーが散歩に出かけることが、そんな大きな意味があったのかと、心して歩いてみる。
 近代的個人と民主主義の原典となった「社会契約論」が一人の人間の思想として現れた点も驚嘆すべきことではないか?現代の個人と社会の矛盾は悲劇なのか?個人と社会の調和は理想なのか?「自然に帰れ」の意味は?