風景との関係 私個人にとって

私個人にとって
 個人的生活では、美しく住むことが問題である。この都市、地域、周囲の人々との関係に毅然とした態度であることで、自分が明確になる。それが不十分であるところが、問題である。今や破綻が眼に見えている。慌ただしく追い立てられるような日々である。眼は見えにくく、音は聞こえにくい、考えは纏まりにくい、これは老化か、認知症かと不安になる。
 しかし、現代の耳鼻科、眼科の医学技術は補聴器、白内障の治療方法で克服でき、補聴器の購入も数日後には実現し、白内障の手術も3ヶ月後に予定している。自然の老化に甘んじないで、環境への感覚閉鎖を打破すればよいのか、しかし、しかし、言葉を聞き分けられず、注意が定まらない視野を改善できるのか、これは認知症なもか、清新な情熱が消えているのかでは 賛美されない風景は空しい生活の背景に終わってしまう。
 若い人、若さを感じさせる人は、美しい風景の中で賛嘆に値すると感じる。かっては、自分も未熟さをものともせずに、世界を理解しようと風景が輝いていた時代があったことに気づく、膨大なメモが残されているが、日々に生まれてくる新たな考えがあふれていたのだ。しかし、ほとんどがみのらないままに終わり、その言い訳の材料でしかない。これを処分しきれない自分は未練がましい年を食っただけの人間にすぎない。
 必要な知識を得るためなら、本の山を探し、どこにでも出かける探検家の気持ちにもなっていたのだが、知識の限界は科学の進歩と一致している。個々の事実も科学の成果として明らかとなっており、その成果の集積以上のものは、不確実な世界で推測の域を出ない。推測は主観的な試行にしか過ぎない。思いつきのメモも同様で、試行して科学の限界に到達しない怠慢といえる。
 こうして自分のことを語れば語る程、風景との関係は遠のいている。個人の生活を日常の時間的流れで見るなら、風景を感じる時間は限られていることがわかる。美しいと印象づけられる風景は一瞬に過ぎないが、風景が存在しなくなったわけではない。