2008-01-01から1年間の記事一覧
眺望を得るには、山の上から下を見ることによるが、山の上も森林が生育していて、下方の眺望が開けた場所は限られている。平地に面した山地が草原であった時代には、眺望がはるかに見出せたであろう。 市街に面した高台の住宅地は限られた眺望の場所である。…
戸外空間の広がりと環境を構成する自然と人工の相対的関係によって、戸外生活環境を分類し、各論を構成してみよう。まず、人為の根源となる生活主体と自然環境要因によって構成された自然空間を対極に置くことを構成の基本とする。生活空間としては居住空間…
生活と環境の関係は、建築分野から住居の生活空間として取り上げられており、建築内部の戸内環境を除いて、戸外環境を考察の対象として取り上げる。生活の場の中心が住居であり、生活の主体が環境の中心にある点では、戸内から戸外の広がりは生活の連続した…
総論となる森の内の構成を提示しないまま、日が過ぎて、各論となる日記は滞っている。果たして日記に総論が必要なのかの疑問もあるだろう。日々の散漫な印象と感想は何を意味するのか、個人の狭い世界の出来事であるとすれば、自分の備忘録であって、公開の…
造園学には、原論が確立していないといわれ、一方で庭園から、公園緑地、風景計画や自然公園、自然環境保全、へと各論的に、活動分野が広がっている。技術、業界、行政からの要請が広範な活動分野の広がりを生み出したといえるだろう。各論を成立させた根拠…
「環境」は多義にわたる社会問題となっているが、その解決には市民や住民の責任を課題とする。しかし、市民、住民生活の環境問題として意識され、問題解決に取り組まれるとはいえない。それは、「環境」問題の発生の原因が、市民、住民生活そのものにあるこ…
建築学会で10年も前に、人間対空間から、人間−環境系におけるデザインが志向された。環境は物理的な空間の面だけでなく、社会生活の場面における人間関係、人間が行動する上での情報、判断の材料となる知識すべてが、人間が生活している環境であり、その環境…
「風景」についての論議は様々な分野からなされ、「景観」と混同されたり、単なる「眺め」とも区別されない点で、あいまいな概念であり、定義は困難であるといわれることが多い。にも関わらず、多くの人が、定義を試みようとしている。私は「環境の総合的知…
はじめに 庭は、造園学の原点として最初に問題とされる場合が多い。建築において住居が原点であることと共通するのであろうか。近代の建築学の原点、原論は人間と空間から出発していると言ってもよいのであろうか。では近代の造園学では、原論の課題は、風景…
近代造園学はアメリカにおけるオルムステッドに始まるとされる。ランドスケープ・ガーデニングからランドスケープ・アーキテクチュアを確立させた。大学での教育、研究も行われ、職業分野として確立した。このアメリカの「ランドスケープ・アーキテクチュア…
森の内、森の外ブログに大勢の方が見に来ていただき、大変感謝しています。とくに、森林風致計画研究所のメンバーには、常連になっていたいて大変うれしく思っています。しかし、これまでの日記は、自分のメモ書きのようなもので、大変、読みにくかったと想…
古代的な神社と近代的な公園が、近隣社会の公共的な利用の場所として共存していることは面白い現象である。しかし、環境として有機的な関係が生まれていないのは何故であろう。神社は古い共同体に依拠して成立してきたもんであり、公園は自治体による市民の…
人は部分しか見れず、人によって見る部分が違うために、部分から全体を推定しようとしても、異なる全体像を想定していることになる。このようなことを、レオヒューバーマンという人が本に書いていたことを思い出す。群盲、象を見ず、あるいは、木を見て森を…
生活を個人の時間的側面から見出し、様々な行動の集積した生活時間の構造が明らかになる。また、生活を規定する消費の面から、家計としての構造をとらえることができる。そして、その消費の結果として個人の所有物、利用する組織の施設の配置を見出す。そし…
インタープリテーションに一昨年、上高地で参加して体験したことがある。自然解説とは異なり、利用者自身が自然に触れて啓発されることを、インタープリターが助けるために一緒に歩くものである。確かに、ただ、歩いている時よりは、認識が新たになったよう…
公園と森林の相違は何か? 公園は、住宅に附属する庭園の共同的、公共的な開放として成立した。新たな公園も都市における庭園とのイメージがある。庭園であるから居住の場として、戸外の休息を求めればよいのである。樹木は存在するが、庭園の一部の要素であ…
1 和洋の森林のイメージの相違 西洋 創られた森 森林を人が関わって創るものとして親しまれる 日本 自然の森 生活に対置される資源の森として、利用されるが、尊重されない 以上の森林イメージの相違は、F先生から疑問として提起された課題であり、この仮説…
地方都市においても郊外住宅地は各所に見出される。東京、大阪などの大都市では、郊外住宅地開発は戦前より行なわれ、あるいは、都市発展自体が都市拡大が郊外化と市街化が連続して進行する状態といえたかもしれない。これらは電車路線の建設と平行し、電鉄…
今日、子供が森の中で遊んでいる姿を見かけた。ヒノキ林の過密な森で、暗く、林床も疎らで土が見えるような状態の中を、7,8歳であろうか、崖の上から、見下ろして、崖を滑りおりる機会を狙っていた。まるで、原始人のように土にまみれていた。よく見ると、滑…
場所とは何ををさしているのであろうか。地表上、あるいは生活行動圏のある位置を示すものか、位置を中心にした範囲を示すのか、あるいは生活行動圏そのもを指すのか、さらに、地表そのものを指すのか、不明である。空間が宇宙までを指していることと同様の…
個々人の様々な行動は、1日単位で生活に包括されている。そこで、個々の行動空間を包括して、生活空間が成立していると理解できる。生活空間の拠点として居住空間があり、居住を中心にした生活行動をもって生活空間を理解できる。生活空間の集合体が、地域の…
近代における都市への人口集中は、それまでの社会が基盤としていた共同体社会から、個人を独立させ、自由を強調する社会へと転換させる背景となった。一方、個人は他人と区別されて孤独となり、社会に対する立場が稀弱となった。これを補うように行政組織の…
環境の知覚は、様々な事物の外観によって生じる。外観に対して内観という概念が対置されると考えられるが、事物の外観の知覚を、どのように意識するか、あるいは、内部的な意識の作用がどのように生じるかを考察することを内観ということのようである。事物…
農村は農業を営む村の意味を示しているが、田舎という言葉は、都市に対して使われ、田園もほとんど同義であろう。しかし、田園は田園都市と結びついて、広まった。確かに、ベートーベンの田園交響曲としても知られ、使われていることを考えれば、もっと普遍…
風景は視覚を中心に知覚される点で、心理学が最も大きく関与している。現在、心理学は脳科学と結びついて、かってなかった知見を生み出し、知覚の体系的認識に到達しているといえる。感覚から認知、行動の連関した認識は、風景の知覚構造を以前の認識から転…
主体が行動する上で、行動する場所の環境を認知しなくては行動できない。認知の第一段階は感覚によるものだが、感覚から環境の一部としての事物を認知するために、感覚は補正されて知覚される。そして主体の行動目的によって注意される事物は影響を受ける。…
視覚から風景はどのように意識されてくるのであろうか。仮説であるが、まず、視野における全体視がある。次に、視野の中で注意する事物へと注視がなされる。注視したした事物の認識から周辺の事物の関係を意識し、構図としての知覚が成立する。これを「眺め…
空間は建築に相応しい言葉である。人体の動作と行動に対応して作られた空間が建築であるからだ。しかし、宇宙が空間と言われる時、空間は無限の彼方に広がって、限定された空間から観念としての空間となり、天空の視界によって知覚される。天空を空間の側面…
明暗の対比は、戸外と戸内、昼と夜の違いで陽光の遮断と有無によるのであろうが、林外と林内は、明暗だけの差ではない。林内は暗がりではなく、陽光と陰、直射光と間接光が交叉し、視界の広がりが陰影の奥行きとなって広がる。夜の林内は闇が濃淡となる世界…
アルプス公園の渓流の谷の斜面はニセアカシア林となっている。小さな頃、ニセアカシアの藪で棘に難渋したことがあったので、森林となったニセアカシアは同じ樹木とは思えない。今の季節は広葉樹の芽吹きが一斉におこり、その新緑は日増しに枯れ木立だった森…